鈴木商会 (群馬県)とは? わかりやすく解説

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鈴木商会 (群馬県)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/27 02:47 UTC 版)

株式会社鈴木商会
SUZUKI SHOKAI[1]
種類 株式会社
市場情報 非上場
略称 鈴木商会
本社所在地 日本
371-0855
群馬県前橋市問屋町二丁目3-3 
設立 安政年間(1961年 株式会社化)
業種 銃砲店等
事業内容 銃砲・火薬類(火工品)・用品類(狩猟・射撃・スポーツ)等
代表者 代表取締役 鈴木肇
資本金 1400万円
関係する人物 (老・翁・尊称・称号略)鈴木屋藤吉・鈴木多一・鈴木市郎・(初代・2代目)鈴木覚太郎
外部リンク http://suzukishokai.com/
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鈴木商会(すずきしょうかい)は、群馬県前橋市にある、打上花火や鉄砲火薬類(火工品)等の製造や販売などを行う会社[2][3][4]

慶應年間(徳川幕藩体制と明治維新期)以降の沿革

元々は安政年間の創業で、1867年(慶應3年)に前橋城の再築(令和における大手町から本町一帯)によって再成立した上野国の親藩前橋藩(1649年に厩橋藩から前橋藩に改名後に前橋城から川越城に移転して武蔵国川越藩に再改名し、そこからさらに前橋城へ再移転して前橋藩への再々改名をした藩)の藩主の城にも御用で出入りして、呉服(絹製品)類などを商っていた[5][6]ところ、前橋藩の藩主江戸幕府政事総裁職や、松平容保新撰組が守る京都へ将軍と共に上洛する役目、及び明治新政府に恭順後から前橋城が前橋県庁(後に群馬県庁に再編)になり各藩ごとの軍事力は解散して日本軍が誕生(軍隊の近代化:大日本帝国陸軍の歴史#建軍期)する1871年明治4年)までの前橋藩知事、などを代々担ってきた松平家徳川家康の次男で豊臣秀吉の養子、秀康子孫で、映画「引っ越し大名!」の題材になった大名家)と前橋藩が使用していた火薬庫に関する払い下げを受けることになり(松平家の馬印の「輪貫」は後に成立する前橋市の市章に残された)[7]、上野国東群馬郡前橋本町から馬場川通り周辺を本拠として、記載番号"第一号"の火薬営業免許鑑札、及び砲売買営業免状を、1885年(明治18年)から翌年にかけて群馬県より与えられた[8][9]。1959年(昭和34年)には法人化し、法人番号は6070001001745となる。

それにより、1947年(昭和22年)のカスリーン台風が1077名の死者と853名の行方不明者を出したことを契機とし、1952年(昭和27年)の計画浮上から完成までの68年間に総事業費約5320億円を要して日本史上最大規模のダム工事となった、群馬県・八ッ場ダム(利根川上流ダム群)の建設や、北海道・東北・関東・信越地方のトンネル(東日本高速道路管内)では最高地点の標高932mにある、八風山トンネルの工事などに関わることになった[7][10]

加えて、高崎花火大会を行っている高崎市とはライバル関係にある県都・前橋市[11]での、前橋花火大会の復活のきっかけの一つを作り、実際に打ち上げを担った[12]

また、関東大震災後の震災手形への公的資金投入を巡って破綻し、昭和金融恐慌の原因の一つを作った鈴木商店は、名前は似ているものの別の企業であったが、富岡製糸場(2014年から世界遺産)の観光も可能な土地に鈴木商会が1973年(昭和48年)に新設した射撃場(約3万坪)については、鈴木商店の流れ(旧:日本セルロイド人造絹糸、大日本セルロイド)を汲むダイセルと関連会社のダイセルパイロテクニクス株式会社(旧:日本装弾株式会社)が鈴木商会から借り受け、オーナーにもなった[13][14][15][16][17][18][19][20]

八ッ場ダムと日本一の総事業費

様々な事情でダムの本体工事が行われていないことが報道され、「脱ダム」の象徴であるような期間があったが[21]、実際にはその間にも本体周辺の工事が進められていた[7]。最終的に総事業費は約5320億円で、日本のダム史上最高額となった。ちなみに、黒部ダムの総工費は完成当時の物価で約513億円で、黒部第三、第四発電所工事に関連し、ダイナマイトの自然発火事故等でそれぞれ100名以上が殉職したが、八ッ場ダム工事では発破が原因の労働災害による殉職者は確認されていない。(詳細は→八ッ場ダム黒部ダム高熱隧道[22]も参照)

前橋花火大会の始まり:復興祭・商工祭・前橋まつり・前橋花火大会の歴史

利根川による侵食や浅間山の噴火(天明大噴火)と前後して破却(破城)された前橋城を、幕末という前橋藩の末期の時代に再築が可能だったように、横浜開港以降の前橋の市中は、日本の主力輸出品の座を占めた生糸に関連した製糸業で好況が続き[23]、前橋藩営製糸場(日本最初の機械製糸工場[24][25])や前橋生糸改所(臨江閣以前の明治天皇行幸の際の行在所)などが、群馬県の成立と前後して建設され、1892年(明治25年)には群馬県下で最初に市制が施行されることになり、生糸貿易商で、松平家(前橋藩)の前橋城再築に私財を提供した下村善太郎が、初代の前橋市長になった[26]。しかし、大正時代に第一次世界大戦が終結すると大戦景気(大正バブル経済)も不良債権を伴って終焉し、国際的な金本位制への復帰を経て突入した世界恐慌の影響を強く受け(金解禁と再禁止[27][28][29])、前橋が頼ってきた輸出産業である製糸業(生糸の約8割をアメリカに輸出していた)は、衰退(昭和恐慌)へと向かった。1931年(昭和6年)の満洲事変以降は非軍事の産業の整理・統制("計画経済")がさらに進行し、代わりに尾島町養蚕農家の借家で創業した中島飛行機等が前橋市内に進出するなど、元々は製糸関連の機械工場が多かった市街に軍需産業の工場が増えてきたところ、第二次世界大戦の終戦まであと十日という1945年(昭和20年)8月5日の夜に前橋市では、主に焼夷弾を搭載した92機のB29爆撃機によって、それら工場とその関係者を含む市街地と市民への無差別爆撃前橋空襲)が行われ、11500戸余り(全市の約6割)が全半焼し、およそ6万人が罹災して600名前後が死亡し、外郭の住宅地や土蔵のような一部の建物を残して、前橋市は繁華街・市街部分の約8割が焼け野原となった(焼け残った土蔵にも、内部が高温になっていたために扉を開けた途端に燃え上がるものがあった、と伝わっている)。この前橋空襲の前後に作成された「米国戦略爆撃調査団文書:空襲損害評価報告書」は、「前橋は、郊外にある重要な航空機部品製造の中心地の代表例である。(中略)かつては繊維業の中心地だったが、(中略) 1942年初頭には中島のための航空機部品製造へ転換した。(中略) その重要性は、太田や小泉の主力工場が空襲を受けているため、高まっていた。」と報告し、前橋空襲の結論としては、「excellent」と表記した。[30][31][32][33][34][35][36][2][37]

それから3年後、配給制や経済の統制が撤廃され始めた1948年(昭和23年)に前橋では「復興祭」が開かれることになり、そのプログラムの一部として8月15日の終戦記念日花火大会が行われ[38][39]ると、引き続き、統制が撤廃されて全面的に"自由経済"に移行した1949年(昭和24年)の10月14日から19日に、商工会主催で行われた第1回目の「前橋商工祭」でも、プログラムには花火大会が取り入れられた。その翌年からは主催者に前橋市が加わり、「朝鮮戦争」による「特需景気」を挟んだ1959年(昭和34年)に、花火大会を含む「前橋商工祭」の名称が「前橋まつり」へと変更され、「前橋初市まつり」や「前橋七夕まつり」(1964年から1968年の花火大会については夏の「七夕まつり」と一緒に行った)と並んで、名実ともに「前橋三大祭り」となっていった。ちなみに1957年(昭和32年)の「前橋商工祭」についてみれば、「天候に恵まれ、豊作景気に煽られて、連日の人出は十万を超え、自衛隊音楽隊を先頭にパレードに人気が集まり、目貫き通りは人の波で埋まった。夜は打上・仕掛け花火が豪華に秋空を飾った。」という状況だった。そして、東京から約100km圏内で日本海太平洋の中間に位置する前橋市では、食品関連の産業などが戦前からの機械関連の産業と同様に発展し始めており(高度経済成長)、1969年(昭和44年)の夏より「花火大会」は「三大祭り」からは独立して、民間の上毛新聞社を中心に行われるようになった。ところが「中東戦争」に端を発する「オイルショック」の影響が大きく、被災と復興から歩み始めた「花火大会」は、1973年(昭和48年)を最後に開催されなくなってしまった。

それに対し、店舗が戦災を被り数度にわたって移転をしながら、前橋で打上花火にも携わり続けてきた鈴木商会は、商工会などに対して「花火大会」復活を提案することになった。前述のように「花火大会」だけを単独で主催した経験が少なかった商工会は、高額な費用は負担できない、と難色を示したが、鈴木商会での花火の打ち上げ費用を試算して働きかけたところ、やがて公式に「市民のみなさんからの復活の声が強く生まれてきた」という見解が発表され、実行委員会を前橋市と商工会が作り、観光協会も参加し、鈴木商会は実際に打ち上げを担うことになって、「花火大会」の8年ぶりの復活が決まった。ところが、1981年(昭和56年)8月15日の復活第一回目の「花火大会」では、利根川河川敷に観客が集まらず、復活は失敗かと思われた。実は市民は久しぶりの「花火大会」に半信半疑になっており、花火が実際に上り始めてから集まりだしたので、花火終了時の堤防付近には歩行が困難なほどの人数が集まっており、翌年の「花火大会」継続が決まった。

1985(昭和60)年の8月13日には、地元・上毛新聞の1面に「日航ジャンボ機墜落、炎上」「長野・群馬県境の山中」「世界最大の航空機惨事」という見出しが掲載されると、翌14日は「奇跡!4人が生きていた」が1面の見出しとなり、消防団員らに担架で救出される非番の客室乗務員のカラー写真が掲載された。紙面の10面から11面は翌15日の前橋花火大会の全面広告となっていて、そのプログラムの先頭には「4寸早打10発 開始合図 鈴木・蟻川」と記載された。この年の花火大会の様子は16日の上毛新聞の社会面にて、「市民ら約三十万人(群馬県警調べ)」「坂東太郎の川面に映る花火は北関東一の規模」「五千発が夜空を焦がした」と報道された。[40]

その後もこの大会は「前橋花火大会」の名称で、鈴木商会と、同業他社で同じく花火の打ち上げに携わっていた蟻川鉄砲火薬店とが打ち上げを分担し、「バブル崩壊」などに見舞われながらも、前橋発祥と言われる空中ナイアガラ等の特色がある「花火大会」として、必ずしも終戦記念日にはこだわらずに娯楽色も強めながら、「その歴史と伝統を維持しながら、市民の地域への愛着や誇りを醸成し、その文化的価値を後世へ繋げていくため」、毎年8月に開催されることが定着した[12][41][42][43][44][45][46][47][48][49][50][2][51][52]

赤城山と松平家(前橋藩)の火薬庫のその後

火薬・火工品の本来の危険性と、西南戦争弾薬掠奪事件連合赤軍事件の山岳ベース事件[53]における真岡銃砲店襲撃事件のような危険も踏まえ、火薬庫・火工品庫には様々な制約があって移転を迫られる場合があり、江戸時代の末期には、前橋城内と厩橋の北の橋林寺東隣、の少なくとも二箇所に藩の火薬庫は分散配置されており、戊辰戦争より前に川越城との間で行われた運搬の記録によれば、藩にはおよそ900以上の火器が保管されていて、そのうち約750挺は通常の火縄銃で、残りはより大口径の、大砲や大筒だったとされる。そして1869(明治2)年11月2日夜に、前橋城内で発生した火災が原因で城内の火薬庫が爆発し、大砲の砲弾のようなものが城外にまで飛翔して炸裂したため、少なくとも堅町(現:千代田町)で町人一名が死亡した。また、現在の群馬県にあたる地域では江戸時代にも、田畑を鳥獣から守る目的で農民や猟師に対して銃を販売することが許されている(古い銃の発砲音で田畑を守る方法などがあった)状態だったが[54]、その後、兵部省による調査の1871(明治4)年7月18日付けの文書によれば、旧前橋藩に関係する銃が、火薬・火工品(弾薬等)と共におよそ1150挺残っており、ライフリングが施された外国製で後装式の高性能な小銃と騎兵銃は約100挺で、その他は、ライフリングが施されてはいるものの前装式の銃だったが、そのうちの数百挺は旧前橋藩の関係者達が自宅で保管している状況だったため、同年10月に明治新政府は、旧前橋藩に関係する銃を東京鎮台に全て提出するように求めた。更に橋林寺の東隣が国道17号線の用地になったため、前橋藩(松平家)の火薬庫は姿を消した。

この江戸時代の前橋は一時期、川越藩の支藩というような低い扱いだったが、前橋の人々は前橋城の改修費用を負担する等の提案を行い、川越藩の当主で徳川家と血縁関係にある、松平家を前橋城に移転させて前橋藩を再興することに成功し、前橋を城下町として繁栄させた。明治時代に藩が廃されると、群馬県庁は一時期、高崎に置かれたが、前橋の人々は公務員住宅の建設費用を負担する等の提案を行い、長州出身の県令楫取素彦と新政府の群馬県庁を、徳川一族の「葵紋」が付いたままの旧前橋城本丸御殿に移転させることに成功し、前橋を県庁所在地として繁栄させたが、これが、土地に余裕がない中での受け入れから六年目に正式に県庁が出ていってしまった、高崎の人々を怒らせたとされる。その後、1918(大正7)年に上越鉄道敷設案が帝国議会に提出されたが、県庁を含む前橋方面を全く通らないルートになっており、これは高崎側の報復であると言われた。前橋の人々は鉄道院への陳情などを行ったが、隣駅・高崎側の協力が無い中、坂東太郎の異名を持つ利根川に、前橋中心部へ立ち寄ることのみを目的に、鉄道橋をもう二本(前橋駅への行きと戻りのため) 架けたり複線化したりすることは断念し、二年余りの運動の結果として、前橋から利根川を挟んだ群馬郡古市村に新設する新前橋駅を経由する形に、上越線の計画は変更され、1931(昭和6)年に全線開通した。当時の新前橋駅は、郷里の詩人である萩原朔太郎の作品に「野に新しき停車場は建てられたり」とあるほど寂しい場所だったが、前橋が利根川の対岸へと拡大していくことになった。

新政府からは1872(明治5)年に「鉄砲取締規則」と「鳥獣猟規則」が出され、主に鳥獣対策に使われていた国産の火縄銃は届け出ることで、また、中古の軍用銃も刻印を押されて登録することで、引き続き使用や散弾銃への改造などができるようになった。(ただし、払い下げの軍用銃は中古でも高価だったために火縄銃を使い続ける者もいて、銃砲店における銃の売買や銃の自作・ライセンス製造が盛んになったのは、明治13年に国産軍用銃・村田銃が登場して以降とされる。)そして、1876(明治9)年には高崎を県庁所在地として第二次群馬県が成立したが1881(明治14)年に太政官布告によって前橋が県庁所在地となり、これによって前述のような群馬県庁の最後の移転が正式に決まり、1884(明治17)年の「火薬取締規則」などは、1899(明治32)年 の「銃砲火薬取締法」へと統合・発展した。この間の1885(明治18)年から、記載番号"第一号"の「火薬営業免許鑑札」と「銃砲売買営業免状」が、群馬県庁から鈴木商会に交付された。この明治時代及び大正時代にかけて、前橋藩(松平家)の火薬庫に連なる鈴木商会の火薬庫は、岩神町や敷島町のような旧前橋城から遠くはない場所にあったが、周辺の市街地化が進み、ちょうど昭和の折り返しにあたる1957(昭和32年)、利根川を越えて赤城山の裾野(用地:約2千坪)に移転した。だが平成になって徳川埋蔵金(江戸城内からも武器弾薬が発見されたため、「幕府を防衛する武器弾薬の購入に使用したので、"埋蔵金"は無い」という説や、「大河ドラマの主人公にもなった"小栗忠順"が、"金"そのものではなく"火薬"を運んだ」という説も存在する[55][56])が話題になった後、近くで温泉が発見されたため、平成12年までに前橋市は通称:荻窪公園計画を決定し、この火薬庫はさらに移転した。

その後、火薬庫があった荻窪町の深掘を含むエリアには「道の駅赤城の恵(開駅日:2011年3月27日)」、天然温泉・レストラン「あいのやまの湯」、農産物直売所「味菜」、紫陽花やホタルを見ることができる荻窪公園などが整備されている。[7][57][58] [59][60][61][62]

脚注

  1. ^ 英字ステッカー - 公式グッズ
  2. ^ a b c [写真集 夢 出会い 前橋] - 前橋商工会議所創立百周年記念誌 1998年3月2日 前橋商工会議所 発行
  3. ^ [鉄砲と歩み続けた125年 ] - 商工まえばし 2011年8月号 前橋商工会議所
  4. ^ 全国法人リスト 前橋 鈴木商会 - 全国法人リスト
  5. ^ [桐生(仁田山絹)、大間々、前橋、富岡、藤岡(日野絹)、沼田、渋川などの絹市が、中世末または近世初頭には既に創始されていたとされる。例えば藤岡などに、江戸の三井(越後屋三井呉服店:三越)をはじめ各地の大店が、絹買いのための出店を開いていた。] - P.128、P.132 群馬県の歴史 1978年 山川出版社
  6. ^ [ https://proverb-encyclopedia.com/douguyahamegakiitehashoubaininaranu/ 道具屋は、身の回りの物から美術的に価値がある品まで様々な物品を下取りし、手入れをしてから再販売していた ] - 道具屋・ことわざ辞典
  7. ^ a b c d 公式Twitter - 2023年2月6日
  8. ^ 公式Twitter - 2022年6月8日
  9. ^ 公式Twitter - 2023年4月29日
  10. ^ 群馬の利根川とダムが支える暮らし~徳川家康も重要視した日本一の川 上毛かるたで「理想の電化に電源群馬」と詠まれるように… - まっぷるトラベルガイド 昭文社
  11. ^ 群馬県民なら知っている仲悪い前橋と高崎 明治期に県庁を奪われたという意識の強い高崎 - 産経新聞 2017年8月18日
  12. ^ a b 巻頭特集 鈴木 蟻川 「"このぐらいの金額で上げられます"と提案し、復活が実現」 - パリッシュ 2014年7月号 株式会社中広・中広ホームページ同内容
  13. ^ 当初は「震災手形」の名前の通り、関東大震災の影響を受けた企業や地域の約束手形を割引した市中の銀行に対して、特別に日本銀行が、震災で支払いが滞って決済できないような手形の再割引に応じて、それによって後に日本銀行に損失が発生しても、日本政府がその損失を国の予算で補償する、という被災地支援の制度であったが、やがて残ったその債務の中に、関東大震災に理由があるとは思われない、経営の誤りによると思われる、鈴木商店とその大口債権者である台湾銀行とに関連の、高金利の手形が紛れている事が政治問題になり、鈴木商店は台湾銀行に融資を打ち切られ、回収と清算の手続きに入って分割・解体された。そして解体前の鈴木商店が、セルロイドやレーヨン(人造絹糸)、外用医薬品強心剤、及び火薬の原料であり花火の添加剤でもある、台湾産の「樟脳」の取引に力を入れていたため、「関連項目」で後述する「日本油脂」や「ダイセル」のような事業者が生まれた。この昭和金融恐慌が教訓となり、「安宅産業破綻」は、混乱を防ぐための「“日本株式会社“の総力戦」と呼ばれることになった。 - 鈴木商店記念館ホームページ http://www.suzukishoten-museum.com/footstep/history/cat1/cat/
  14. ^ 「世界遺産になった富岡製糸場、温泉マークで話題になった磯部温泉がありますので、ご利用ください。」 - 射撃場長:井上伸一 ジャイアント射撃場紹介 4×4 MAGAGINE 公式YouTube 2017年9月3日
  15. ^ [ただし、当初からの富岡製糸場まで約8kmという立地に変化は無かったものの、1980年代までの富岡製糸場は製糸工場として稼働が続いており、その後に国の史跡、重要文化財を経て、2014年に正式に世界遺産とされた。]
  16. ^ ぐんまジャイアント総合クレー射撃場 公式Twitter - 2022年1月17日
  17. ^ ぐんまジャイアント射撃場 公式Twitter - 2022年6月2日
  18. ^ ジャイアント射撃場 高崎新聞 - 高崎商工会議所 「商工たかさき」 2009年2月号
  19. ^ ぐんまジャイアント総合クレー・ライフル射撃場 - ダイセルパイロテクニクス株式会社ホームページ
  20. ^ 社名変更のお知らせ 日本装弾 ジャイアント射撃場 - ダイセルパイロテクニクス株式会社ホームページ
  21. ^ 「脱ダム」の象徴となるなど紆余(うよ)曲折の歴史もたどった。そんな八ツ場(やんば)ダム(群馬県長野原町)が計画から68年の年月をかけて完成。 - 2022年5月28日 朝日新聞
  22. ^ 火薬が重要なアイテムになっているノンフィクションで、映画「黒部の太陽」の回想シーンのシナリオに引用された。
  23. ^ 群馬銀行 横浜支店 群馬と神奈川には浅からぬ縁がある。かつて幕末の開港以来… - 神奈川新聞 2013年1月29日
  24. ^ 上毛かるた等では、前橋藩営製糸場より後の富岡製糸場を、"日本で最初の"として扱っているが、富岡製糸場は正確には、"日本で最初の「小規模ではない」、または「短期間ではない」、つまり「本格的な」、もしくは「管理された生産の下で揃った品質の生糸を大量生産する」"、ような器械(機械)製糸工場と言える。速水堅曹のように両方の設立に関わった人物もいた。それまでは農家で、繭の生産だけではなく座繰製糸(家内制手工業)も行っていて、生糸の品質が揃わなかった - コープぐんま 2015年10月号
  25. ^ 前橋藩営製糸場の方については、通常は上毛かるたの「ま」の札(「繭と生糸は日本一」)の裏面に、「製糸技術の改良は、明治3年前橋藩士の手で器械製糸が始められてからで、それ以後前橋を中心に発達した。」という言及がある。 - 上毛かるた今昔物語 2021年2月24日
  26. ^ (上毛かるた)「県都前橋 生糸(いと)の市(まち)」 - 前橋市役所 公式ホームページ
  27. ^ 濱口内閣は、日本円(通貨)を第一次世界大戦時と同じ法定平価(1円が金二分、100円は49ドル8分の7)で、金貨(正貨)に両替(兌換)したり、その正貨を海外へ送ったりすることを可能にして、日本円を使わない海外の国との取引を正常化したり、日本の国内企業を淘汰・強靭化しようと試みた(自由放任主義)が、世界的な恐慌と混乱で生糸等の取引が思ったように増えず、この金本位制からの離脱や割高な日本円と日本製品の値下がりが期待・予想されるようになった。やがて、円の値下がり前にドルを買っておき、反対の売買を行わずに現物の円の値下がり(高橋是清による兌換・金輸再禁止直前の1931年12月11日以降 100円=40ドル以下)を待って、機関投資家等が外国為替売買益を得た(金解禁#ドル買事件と金解禁の挫折)が、同時に、公定歩合引き上げと為替介入(ドル為替を割安で国内外に販売し、その決済資金を補うため、日本の正貨を国外に現送する必要が生じた)が失敗して輸出拡大を伴わない円安となり、日本国内の資金の流通量が減少し、生糸や米などの物価が暴落するデフレが発生して農村・養蚕農家が打撃をうけ(欠食児童)、公共事業が行われた(大きな政府・乗数効果)が、が使用された濱口首相の銃撃事件井上元蔵相などの血盟団事件犬養毅首相の五・一五事件なども起きた。そして化学繊維の普及もあり、前橋を含む日本の養蚕業はこの1930年代をピーク(繭生産量:約40万トン/年)として、第二次世界大戦の後に日本からアメリカなどへの輸出が再開されても、その水準を回復することは二度と無かった。ただし、当事者の一部とされた三井グループはそれから約100年にわたり、マスコミの取材や三井広報委員会のホームページ等を通して、「(海外での外貨有価証券類の利払いなどに必要な)実需に応じたドル買いを行ったが、投機目的ではなかった。」と主張し続けている。
  28. ^ ベトナム戦争中の「ニクソンショック」以降は世界的にほぼ行われなくなった。
  29. ^ その時歴史が動いた 昭和を揺るがした銃弾」 日本放送協会 2002年 ISBN 978-4-8342-7381-6
  30. ^ [上毛新聞社発行(2015年)の「富岡製糸場と絹産業遺産群世界遺産登録記念 絹の国のお宝」 p.64では、"1935年(昭和10年)の前橋市は、製糸工場の数が109、女子工員の数は8300人を越え、前橋市の人口の1割近くを占めていた"としていて、空襲から33年後に出版された、「直撃弾を逃れて 8・5前橋空襲の記録」第三文明社(1978年)p.21は、"家を失うなどして、およそ9万人いた前橋市の人口が一時的に3万5千人まで減った"としている。
  31. ^ 罹災者数約6万人 およそ11500戸が全半焼 外郭の住宅地を残して、市街部分の約8割が焦土となった - 前橋市公式ホームページ 2019年11月22日
  32. ^ [生糸の約八割を対米輸出に依存していたが、1938年(昭和13年)に国家総動員法が成立し、軍事目的以外の生糸、織物、企業活動は制限を受け、1943年(昭和18年)時点では群馬県内の織物工場の60%が、人員、設備を軍需工場に転換することを命じられており、力織機などは鉄材として供出した(金属類回収令)。1944年(昭和19年)には、理研金属工業、関東製鋼、関東電気化学、小島機械、桐生機械、沖電気等の群馬県に所縁のある企業とその関連工場で10万人以上が、弾薬、爆薬、爆弾、軍用機などの製造に関わることになり(勤労動員)、群馬県の企業が真っ先に国有化されたケースもあった(第一軍需工廠)。] - P.250、P.259、P.261 群馬県の歴史 1978年 山川出版社
  33. ^ 群馬県関連 戦没者5万人悼む ぐんまアリーナ 「戦争の悲惨さ 語り継ぐ」 - 東京新聞 2023年8月16日
  34. ^ "風船爆弾を作った少女たち ~極秘指令 アメリカを爆撃せよ~" 全国高等学校総合文化祭 県立前橋女子高等学校・音楽部「灰になった街」 - フジテレビ NONFIX 2009年3月1日
  35. ^ 当時の世界最高峰の水上戦力である大和型戦艦の45口径46cm砲でも、間接射撃の仰角45度、初速780m/秒(時速2,808km)で水上から発射された砲弾が、減速しつつ水平距離25km付近でおよそ高度11,900mに達し、そこから落下しながら加速して、発射から約100秒後に水平距離42km付近の地点に着弾する場合が最大射程距離である、と弾道が計算されており、射撃に関する火薬などの技術水準的に、今後もしばらくは海から来る外国の攻撃(艦砲射撃)は前橋周辺までは届かない、という期待もあった。この"前橋周辺への工場の疎開"については前橋市のwikipediaページの記述も参照。なお史実のアメリカ軍は、片道飛行によるドーリットル空襲や、排気タービンのような技術の実用化、サイパン島(絶対国防圏)占領などに成功したため、日本を空から攻撃をした。
  36. ^ 「"終戦直後の製糸は、戦前の最盛期に比べ工場数で95パーセント、設備台数で92パーセントを失う壊滅的な状況下にあった。しかし軍需産業に転換した製糸工場の復元は、生糸輸出が戦後の経済復興の一翼を担うもの"として、連合軍総司令部の管轄下で即急に進められ、"23年には早くも戦後の上限設備台数4万9千208台に達した。しかしアメリカ市場は既にナイロンに代表される化学繊維の時代にあり生糸の輸出は順調でなかった。"」 - 嶋崎 昭典 定繊自動繰糸時代 - 世界の製糸技術への貢献 農研機構
  37. ^ Records of the U.S. Strategic Bombing Survey, Entry 59: Damage Assessment Reports, 1945 資料形態 デジタル画像(国立国会図書館デジタルコレクション) 請求記号 USB-15 書誌ID 000006879253 原所蔵機関: 米国国立公文書館 (RG243) 資料種別 : [マイクロ資料] コレクションタイトル: U. S. Strategic Bombing Survey
  38. ^ 近年は終戦記念日にこだわらず8月の中旬までの週末に開催されている。 前橋で花火大会が開催されるようになったのは1948年(昭和23年)年8月15日。 - 高崎前橋経済新聞 2010年8月12日
  39. ^ 戦火の記憶を次の世代へ 前橋花火大会の第1回目は昭和23年、戦後の復興祭として開催され、形を変えながら現在も続いています - 前橋市役所 広報まえばし 2019年8月15日
  40. ^ [この期間の新聞広告についての議論が、地元紙が日航機事故と全国紙を追いかける姿の一部として、「クライマーズ・ハイ」でも描写された]
  41. ^ (株)鈴木商会さんと(有)蟻川銃砲火薬店さん - 富士スバル スタッフブログ
  42. ^ 開始合図 蟻川銃砲・鈴木商会 - 前橋花火大会 打上げプログラム
  43. ^ 打ち上げ地点からの花火写真 - 公式Twitter
  44. ^ 前橋の花火大会は、昭和四十八年まで毎年実施していましたが、いろいろな都合により八年余り中断していました。しかし、近ごろ多くの市民のみなさんから〝夏の夜の風物詩・花火大会〟の復活の声が強く生まれてきました。 - 広報まえばし 1981年 7月15日号 前橋東地区応援メディア あずまある
  45. ^ 発祥 名物は空中ナイアガラ - 旅行新聞ホームページ
  46. ^ [2012年 前橋空中ナイアガラ bamb005525 YouTube] - 2012年8月11日
  47. ^ 1万5千発 群馬県花火ランキング - 花火 ウォーカープラス HP
  48. ^ 花火打ち上げ総数、群馬県内トップクラス - PR TIMES ホームページ
  49. ^ 8月15日の終戦記念日に8年ぶりに復活した花火大会&前橋空襲の写真 - Twitter
  50. ^ この前橋花火大会の開催を通じて、市内経済活動の活性化を促す機会とするとともに、その歴史と伝統を維持しながら、市民の地域への愛着や誇りを醸成し、その文化的価値を後世へ繋げていくため開催いたします。 - 前橋花火大会公式HP 2023年
  51. ^ [自由経済に移行 - 前橋商工祭 昭和32年] - 前橋商工会議所六十年史 1958年 丸山清康著 前橋商工会議所 発行
  52. ^ [通史編 夢 出会い 前橋] - 前橋商工会議所創立百周年記念誌 1998年3月2日 前橋商工会議所 発行
  53. ^ [山岳ベース事件の捜査にあたった群馬県警の本部長は、後に大阪府警本部長として、やはり銃が使用された三菱銀行人質事件を解決した。]
  54. ^ 例えば東京都小平市は公式HPにて、"小平市域の村では和銃とゲベ-ル銃を「慶応年中 埼玉県入間郡所沢町市場に於て 姓名不明なる古物商なる者より買い取」ったとする記録もあり、幕末には日常的にも銃は流通していたようだ。"と記述している - 小平市公式HP
  55. ^ [1] - 東洋経済オンライン 2017/06/24
  56. ^ [2] - 小学館サライ公式HP 2021/12/5
  57. ^ 赤城の恵 - 国土交通省ホームページ
  58. ^ 市内にホタルを見られるところはありますか - 前橋市役所ホームページ
  59. ^ [前橋城考] - 野本文幸 上毛新聞社営業出版局 2022年
  60. ^ [群馬県の歴史] - 山川出版 2013年
  61. ^ [鉄砲を手放さなかった百姓たち] - 武井弘一 朝日新聞出版 2010年
  62. ^ [前橋藩松平家記録 第40巻] - 前橋市立図書館 煥呼堂 2007年

関連項目

  • 萩原朔太郎(「夕ざれば そゞろありきす 銃機屋の まへに立ちては ピストルをみる」他):鈴木商会が前橋市本町を本拠として、記載番号「第一号」の火薬営業免許鑑札に加えて銃砲売買営業免状を群馬県より与えられた1886年(明治19年)に、群馬県東群馬郡北曲輪町(後の本町や千代田町などの一部)、令和の千代田町二丁目付近で生誕した。
  • 傘薬師塔婆(前橋市指定重要文化財):末法思想が流行した平安時代から鎌倉時代にかけて、密教から顕教(密教以外の仏教)に信仰が移っていき、庶民にも仏教が広く浸透していたことを表すもの。元々は現在地から数百mほど離れた場所にあったが、昭和40年頃に造成された問屋町団地の鈴木商会と同区画の丁間稲荷(問屋町2-3-4)内に移転した。南方釈迦、東方薬師、北方弥勒、西方弥陀、の顕教四仏と二重火炎光背が彫られている。
  • 佐田建設日油(旧:日本油脂、日産化学工業)・カーリットホールディングス(ジャペックス:日本油脂と日本カーリットや日本工機の産業火薬営業部門が統合された企業)[3][4]:爆薬・火薬(無煙火薬)で関連の企業/有名な三億円事件においては日本カーリット製の発煙筒がダイナマイトの代わりに使用された
  • ダイセルパイロテクニクス[5] [6]:射撃、ぐんまジャイアント総合クレー・ライフル射撃場で関連の企業
  • 巻狩鉄砲伝来以前から、源氏や松平・徳川家のような権力者が主に軍事演習として行ってきた伝統的な狩猟で、現代には獣害対策の一つとして残る他、日本の皇室や欧州の王室にも伝統的な狩猟の一部が残されている(バルモラル城宮内庁鴨場などで、バルモラル城はフィリップ・マウントバッテンが当時のエリザベス王女:後の英エリザベス二世女王にプロポーズした場所とされ、新浜鴨場は、当時の皇太子・徳仁親王が小和田雅子にプロポーズした場所とされている[7])。

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