連合艦隊司令長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 14:17 UTC 版)
1945年(昭和20年)5月29日、連合艦隊長官に就任し、海軍総司令長官と海上護衛司令長官を兼ねた。就任の際に海軍大将昇進を打診されたが、小沢は断った。 詳細は「ハンモックナンバー#小沢治三郎中将の大将親任辞退」を参照 幕僚であった瀬島龍三によれば、小沢は決定すべき問題に、その都度明確に裁決を下す、動かざること山のごとき長官だったという。 6月6日、菊水作戦の続行方針を堅持しつつ、練習航空機特攻部隊に展開準備を命令。6月24日、小沢は第三航空艦隊長官・寺岡謹平中将に剣作戦の部隊編成しマリアナ方面の基地にB-29戦力破壊を目的に捨身攻撃を行う準備を命令。またその際の制圧のため、銀河に多銃を装備させ強襲する烈作戦も準備を進めた。6月25日、トラックに彩雲を輸送する光作戦、ウルシーを奇襲する嵐作戦の実施を発令。神風特別攻撃隊第五御盾隊によるレイテ奇襲を目的とした第4次丹作戦の準備を進め、8月4日に小沢は訓電を送り激励する。 「戦機熟し諸子に進発を下令す 諸子の将に屠らんとするは年来の頑敵にして過去累次に亙り幾千の英霊が撃滅に長恨を残し今之が驕慢横行は一億宿怨の籠る所なり 茲に諸子は決号作戦一億特攻の先陣として此の宿敵を粉砕以て敵進行の骨幹を疫徐して決勝の一路を啓開せんとす 誇りや高く任や重し往け 大君の御楯として生を受くる20数年 今ぞ畢生の精魂を傾倒して之を必成せよ」起案淵田美津雄大佐 こういった中、終戦が決まった。終戦前日の8月14日、幕僚を集合させ終戦決定のいきさつを話し、軽挙妄動を防ぎ、油断を戒める両面を考慮し「決三、四、五、六号作戦警戒」発令の手続きをする。「お上の信用がまるでなくなってしまったので」と最後に深い悲しみを漏らした。小沢は軍令部次長・大西瀧治郎中将の自決については何ら意見を述べなかったが、終戦後部下を連れて特攻した宇垣纏については命令違反であると批判した。そして自分の幕僚に「君たちは腹を切ってはいけない。俺も自決しない」と明言し「俺は第一線で全力を尽くして戦ったが、戦争は不幸にして負けた。俺にはその責任はあるが、戦争を始めた責任は俺にはない」と説明した。 また終戦の際に厚木飛行場で小園安名大佐が抗戦を主張して厚木航空隊事件を起こした。小沢は反乱と断定して鎮圧を命令し部隊を派遣しようとしたが、小園大佐がマラリアで倒れたことにより事態が収束した。
※この「連合艦隊司令長官」の解説は、「小沢治三郎」の解説の一部です。
「連合艦隊司令長官」を含む「小沢治三郎」の記事については、「小沢治三郎」の概要を参照ください。
連合艦隊司令長官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/27 07:59 UTC 版)
1933年(昭和8年)11月15日、海軍兵科将校の最高の憧れであった連合艦隊司令長官に就任した。海軍青年将校はその就任を大歓迎したという。また連合艦隊司令長官は国民の間に人気がある職位であったが、末次の人気は歴代長官中、東郷平八郎に次ぐものであった。末次には犯し難い威厳があったとされ、長官としては夜戦を重視した猛訓練を施してその戦力を向上させ、小柳冨次はその程度を極度としている。 連合艦隊司令長官在職中、南雲忠一らが集めた軍縮条約から脱退を求める署名を海軍大臣・大角岑生に提出し、また伏見宮にも取り次いでいる。伏見宮は加藤寛治と末次に注意を与えた。また軍事参議官として迎えた軍縮条約の延長問題に対しては、無条約無拘束を最上とし、次善の策として各国の最高軍備の限度を共通とすることを主張した。 最終的に日本は軍縮条約から脱退したが、米国で両洋艦隊法が成立したことによって日本は対米6割の維持もできなくなった。このことは太平洋戦争の開戦決定前に実務を担っていた海軍省、軍令部の中堅に影響を与えている。
※この「連合艦隊司令長官」の解説は、「末次信正」の解説の一部です。
「連合艦隊司令長官」を含む「末次信正」の記事については、「末次信正」の概要を参照ください。
連合艦隊司令長官と同じ種類の言葉
Weblioに収録されているすべての辞書から連合艦隊司令長官を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 連合艦隊司令長官のページへのリンク