小沢治三郎中将の大将親任辞退
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「ハンモックナンバー」の記事における「小沢治三郎中将の大将親任辞退」の解説
「将官になると各人の先任・後任の順位が固定されること」、「軍令承行令により、兵科将校の間においては、後任者は先任者を指揮できないこと」が、海軍の人事と組織に強く影響した事例がある。 1945年(昭和20年)5月15日付で、「最後の海軍大将」として、塚原二四三中将(兵36期の2番手、横須賀鎮守府司令長官)と井上成美中将(兵37期クラスヘッド、海軍次官)が大将に親任された。このとき、海軍大臣の米内光政大将は、軍令部次長 兼 海軍大学校長であった小沢治三郎中将をも大将とし、海軍総司令長官として海軍の全部隊を統合指揮させたい意向だったが、小沢はそれを固辞した。 昭和20年5月の時点で、現役中将の先任順は「塚原・井上・小松輝久(軍令部出仕)・草鹿任一(南東方面艦隊司令長官)・大川内傳七(南西方面艦隊司令長官)・小沢」(井上から小沢はいずれも兵37期)であった。小沢が大将に親任されるには、井上と小沢の間の小松・草鹿・大川内を予備役とする必要がある。この時、小松は内地におり、塚原・井上の大将親任と同時に待命・予備役編入となったが、草鹿はラバウル、大川内はルソン島と、内地との交通が途絶した遠方にあった。草鹿と大川内を予備役に編入した場合、職務を引き継ぐ者を内地から送る手段がないため、両名を即日召集して「召集された予備役中将」として現職務を続けさせるしかない。しかし、予備役中将は、それまでの先任順位とは関係なく全ての現役中将の下に位置づけられるため、数年も若い現役中将の下になってしまう。雨倉孝之は、草鹿・大川内をそのような境遇に陥らせるのを避けるため、小沢は大将親任を辞退したのであろう、と述べている。 昭和20年5月29日、小沢は中将のままで海軍総司令長官 兼 連合艦隊司令長官 兼 海上護衛総司令長官に親補された。小沢の先任順位は現役海軍兵科将校の中で18位であり、小沢より先任の中将が3名いた。軍令承行令により、後任者は先任者を指揮できない。小沢より遥かに先任である支那方面艦隊司令長官の近藤信竹大将(兵35期)は司令部の上海から内地に戻って軍事参議官となり、小沢より後任の福田良三中将(兵38期)が支那方面艦隊司令長官に親補されることで「後任者が先任者を指揮できない」問題を回避した。さらに小沢より先任である南東方面艦隊司令長官の草鹿任一中将と南西方面艦隊司令長官の大川内傳七中将については、既述のように留任させる選択肢しかないため、両名の指揮する南東方面艦隊と南西方面艦隊を連合艦隊から除いて大本営直属とすることで、「後任者が先任者を指揮できない」問題を回避した。
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