豊宮崎文庫
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豊宮崎文庫(とよみやざきぶんこ)は江戸時代初期に伊勢国度会郡継橋郷の豊受太神宮(豊受宮、伊勢神宮外宮)に隣接する豊宮崎の地[注 1](現三重県伊勢市岡本3丁目)に開設された文庫。単に宮崎文庫(みやざきぶんこ)とも称した。
注釈
- ^ 地名は、宮山(高倉山)の東麓に位置してその尾崎(山の端)に当たることから宮崎と称され、豊受宮に因んで豊を冠したものとも[1]、豊受宮の尾崎の謂とも[2]、かつて豊宮川(宮川)に突き出した崎(岬)であったために称されたものともいう[3]。
- ^ 下述する文庫落成を寿いだ永田善斎「宮崎文庫記」や林道春「宮崎文庫之記」序、林靖「勢州度会宮崎文庫記」(いずれも弘正前掲書所引)でも文庫創設の意義を金沢や足利のそれに比している。
- ^ この岡田文庫が林崎文庫の前身の一とされたという(元泰前掲論考)。
- ^ 延佳は後年、「金銀を出しても倭国の神書国史などは、板行して流布したき物なるを」と述べてそれが行われないことを嘆き、その原因を、それら書籍を繙く事も無く筐底に秘蔵するのみか自身の不学の露呈を嫌って神罰が当たる等と称して他見を許さない神職が多い事に需め、その為に徒に蠹魚や鼠の餌となったり、火難に遭ったりして失われる事態も生じる事を恐れ、そうなればそうした行為は流布を願ってこそ撰んだ筈の「作者の本意」に反する「悪逆無道の所為」であろうと難じている(『太神宮神道或問』下、寛文6年。引用は前掲大系本に拠る)。
- ^ この令条は後に改訂され、更に宝暦12年(1762)改訂の新令条となった(源一前掲書同項)。なお、当初の令条は弘正前掲書に引載されてある。
- ^ ただし、延佳は辞退して父延伊に譲っている。
- ^ 親毅前掲書に拠れば、親毅の時代には善斎筆の扁額は表門に懸けられていたという(巻之七「文庫」)。
- ^ 親毅前掲書に拠れば扁額には「弘文院林学士某」の筆と誌されていたらしい。
- ^ この天神祠は明治12年(1879)以後に廃祠とされた(源一前掲書同項)。
- ^ 後に国学者で同じく外宮祠官の足代弘訓も相殿に祀られた(源一前掲書同項、平凡社『神道大辞典』)。
- ^ この際に修理費用の寄付を募ったところ180両弱の金子が集まり修造後には余剰金も生じたために、それは山田三方に預けて将来の修造基金にしたという(貞多前掲書)。
- ^ 前掲町方古事録は幕府からの下付を3月のこととする。また、親毅前掲書に拠れば、江戸時代後期には宮崎に米10石、長屋村(現伊勢市御薗町長屋)に麦10石の料所があったといい、町方古事録に拠れば、当初は豊宮崎に1所、長屋村に2所、青蓮寺門前(久志本村(現同市神田久志本町)カ?[要検証 ])に1所の計4箇所を購ったという。
- ^ 当初期の年行事は祭主定長、大司精長、外宮官長常晨を除いた籍中67名を8乃至9名宛1番に編成したものであった(薗田前掲書)。
- ^ 延享3年に文庫を訪れた多田満泰に拠れば「中右薩戒野府等も在之(これあり)候。公卿補任も御さ候。侍中群要、西宮、北山之類多在之」といった状態で、「兼々(かねがね)存候とは太相違、よき御書物多々秘蔵」と満泰を感心させており、関係者も全30巻の『朝野群載』中9巻を欠いた状態を「残念之到」と忸怩する意識を有していたという(同年2月22日付萱生木工(由章)宛満泰書簡、後掲『宮川日記』追加収載)。
- ^ これは開庫当初からの基本方針だったらしく、文庫落成を祝した羅山以下の記文(弘正前掲書所引)中にも既に見えている。
- ^ 寛政3年(1791)に招かれて『中庸』を講釈した中沢道二は、法体のままこれを行って上部貞多を「文庫にて法体の人講釈ありしはいとめつらしき事にこそ」と驚かせている(貞多前掲書中)。
- ^ なお、籍中人数は江戸時代後期、化政期に至っても119人で、所蔵数は書籍1,270余部、奉納和歌連歌が60余巻であったという(親毅前掲書)。
- ^ 差し当たり英語・支那学・算術を課すこととしていた(県史資料編)。
- ^ ただし、元泰前掲論考等これを失火とするものもある。
- ^ もと、秀郷の末裔という津の赤堀氏に伝来し、時期は不明であるが山田の深井家が同氏から養嗣子を迎えた際に持参されて以来深井家において伝世されて来たという太刀で、深井家の家運が傾いた寛政年間に足代弘臣の計らいで内外両宮の権禰宜達が買得し、彼等に依って同5年(1794)12月に文庫に奉納されたという(前掲市史、貞多書中、後掲『宮川夜話草』巻之五「秀郷佩刀」)。なお、笠井(度会)末顕がこの太刀に寄せた漢詩「宝刀行」の序文には、秀郷が江州三上山の蜈蚣を退治るに際して琵琶湖中の龍宮で得た宝刀であると誌されてあり(貞多同書所引)、同じく秀郷裔を称した四日市の浜田氏(赤堀氏)の許に秀郷の「龍宮より褒美の太刀」があって天文13年(1545)冬に谷宗牧が拝見のために浜田を訪れているが(『東国紀行』)、その太刀がこれであろうとされる(『神宮徴古館陳列品図録』神宮徴古館農業館、昭和16年)。ちなみに、浜田城跡鎮座の鵜森神社が所蔵する、秀郷が三上山の蜈蚣を退治した際に手に入れたと伝える兜(十六間四方白星兜鉢、重文)もまた、以前は浜田氏に伝来していたものという。
- ^ 源一前掲書に拠れば昭和35年時点では大観社と延佳・弘訓霊社と倉庫1棟が尚存していた。
- ^ 芭蕉の没後61年に当たる宝暦4年(1754)10月に伊勢の俳諧結社である神風館の第5世代表の温故が、『野ざらし紀行』に載る「みちのへのむくげは馬にくはれけり」句の芭蕉真筆による短冊を西行谷の松樹下に埋めて「木槿(むくげ)塚」と名付けたその傍らに建てた碑で、昭和初期までは伊勢市辻久留町の威勝寺跡にあったが、後に移設されたものという[57]。なお、西行谷については、西行が庵を結んだという伝説が残る現伊勢市宇治館町の県営総合競技場の南、岩井田山(通称楠部山)山麓の谷に相当する。
- ^ 外宮社殿の屋根に生えた桜を移したものとの説も行われるが、これは訛伝であろうという(親毅同書)。
出典
- ^ 与村弘正『勢州古今名所集』巻第三「豊宮崎」、明暦・万治ごろ(大神宮叢書第6『神宮随筆大成』後篇所収)。
- ^ 安岡親毅『勢陽五鈴遺響』度会郡巻之七「豊宮崎」、天保4年。
- ^ 薗田守良『神宮典略』36、文化末 - 天保初年?(大神宮叢書第1『神宮典略』後篇所収)
- ^ 『圖書館雜誌』第12号雜報「宮崎文庫の移動」(日本圖書館協會刊、明治44年。西川元泰「神宮文庫」(『神宮・明治百年史』上巻、神宮司庁刊、昭和43年、所収)所引)。
- ^ 元泰前掲論考。
- ^ 佐古一冽「度会延佳と豊宮崎文庫」(『神道大系月報』27、神道大系編纂会刊、昭和57年所収)。
- ^ 出口延佳(カ)『豊受太神宮祠官賞爵沙汰文』巻下所引万治2年(1659)7月3日付幕府寺社奉行宛「恐れ乍ら返答申上る条々」。『神道大系』論説編7(神道大系編纂会刊、昭和57年)に拠る。
- ^ 出口延佳『伊勢太神宮神異記』寛文6年刊(前掲大系所収)。
- ^ 一冽前掲論考。
- ^ 一冽前掲論考、近藤啓吾「度会延佳を思ふ」(『神道大系月報』83、神道大系編纂会刊、平成元年所収)、大西源一『大神宮史要』第13編第5項「豐宮崎文庫と林崎文庫」、平凡社、昭和35年。
- ^ 延佳前掲神異記。
- ^ 李全直「文庫起源」(弘正前掲書所引)、元禄10年(1697)の編者不明『山田町方古事録』(『日本都市生活史料集成9』門前町篇、学習研究社、1977年所収)「豊宮崎文庫起源之事」。
- ^ 参考文献節に掲げる諸書。
- ^ 延佳前掲神異記。
- ^ 弘正前掲書。
- ^ 全直前掲記。
- ^ 『三重県の歴史散歩』。
- ^ 親毅前掲書。
- ^ 平出鏗二郎「度會延佳及び其神學」(『史學雜誌』第12編第5号、史學會刊、明治34年所収)。
- ^ 源一前掲書同項。
- ^ 前掲町方古事録。
- ^ 度会貞多『神境祕事談』上、享和3年(前掲叢書第6後篇所収)。
- ^ 貞多前掲書。
- ^ 小野則秋『日本文庫史研究』下巻第4章第2節「豊宮崎文庫」、臨川書店、昭和54年。
- ^ 源一前掲書同項。
- ^ 則秋前掲書同項。
- ^ 参考文献節、及び当脚注節に掲げる諸文献。
- ^ 一冽前掲論考。
- ^ 前掲元泰論考、源一書同項、鏗二郎論考。
- ^ 延享3年4月5日付木工宛満泰書簡(前掲日記追加)。
- ^ 中西信慶(度会延貞他編)『神境紀談』巻三「宮崎文庫」、元禄13年(前掲叢書第6後篇所収)。
- ^ 弘正前掲書所引慶安令条第14条。
- ^ 度会清在『毎事問』中「宮崎文庫ノ事」、享保17年(前掲叢書第6前篇所収)。
- ^ 満泰『宮川日記』、延享3年。前掲叢書第4『神宮參拜記大成』所収(ただし底本は中川経雅書写本)。
- ^ 秋田書店『日本史跡事典』。
- ^ 前掲源一書、則秋書。
- ^ 宇治山田市役所編『宇治山田市史』下巻(宇治山田市役所、昭和4年)第十一篇第二章第一節「豊宮崎文庫」。
- ^ 文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説日本の史跡』第8巻近世近代2、同朋舎出版、1991年。
- ^ 前掲元泰論考、則秋書同項。
- ^ 源一前掲書同項。
- ^ 前掲元泰論考、則秋書同項、市史。
- ^ 前掲市史、『三重県史』(三重県、平成3年)資料編近代4。
- ^ 前掲元泰論考、県史資料編。
- ^ 前掲県史資料編、神宮司庁編『神宮史年表』(戎光祥出版刊、平成17年)。
- ^ 服部英雄『三重縣史』下編第10章第6項、弘道閣、大正7年。
- ^ 前掲元泰論考、神宮史年表。
- ^ 伊勢祖霊社「沿革」(平成26年11月22日閲覧)。
- ^ 前掲源一書同項、神宮史年表等。
- ^ 前掲元泰論考、市史、図説。
- ^ 前掲元泰論考、則秋書、市史、図説。
- ^ 則秋前掲書。
- ^ 前掲元泰論考、市史、図説。
- ^ 源一前掲書同項。
- ^ オヤネザクラ(お屋根桜)(伊勢市、2015年5月1日閲覧)
- ^ 前掲図説。
- ^ 前掲図説。
- ^ 伊勢志摩きらり千選「文庫跡地の石碑」、平成26年11月22日閲覧。
- ^ 親毅前掲書、秦忠告『宮川夜話草』巻之四、安永2年(1773)(前掲随筆大成後篇所収)。
- ^ 親毅前掲書。
- ^ 前掲きらり千選「旧豊宮崎文庫(国指定史跡)」(平成26年11月22日閲覧)。
- 1 豊宮崎文庫とは
- 2 豊宮崎文庫の概要
- 3 経営
- 4 沿革後編
- 5 参考文献
豊宮崎文庫
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詳細は「豊宮崎文庫」を参照 天下泰平となった江戸時代の慶安1年(1648年)、国学者として知られる外宮権禰宜出口延佳(度会延佳)の提唱に与村弘正・岩出末清・檜垣常基や御師、総勢約70名が賛同・出資し、外宮の東隣の豊宮崎(現在の伊勢市岡本3丁目、「豊受宮の尾崎」の意味で外宮神域の先に由来する地名)に豊宮崎文庫を設立した。この豊宮崎文庫に設けられた講堂では和学・漢学などの講義が行なわれ、神職の養成に勤めた。 寛文1年(1661年)に山田奉行の八木宗直が江戸幕府に働きかけ、豊宮崎文庫の修理料として米20石の畝地が寄贈された。宗直は文庫式条を定め、豊宮崎文庫設立に協賛した有志が出資し維持にあたる、籍中と称する財団により図書の購入や出納・謄写・曝涼などの業務を行う、などとした。8組で構成された籍中は行事を順番に交代で勤めた。当初70人であった籍中は後に100人を超えたと元禄10年(1697年)の『山田町方古事録』に記されている。 日本各地に豊宮崎文庫の名が知れ渡り、寛政8年(1796年)に水戸の小宮山昌秀から『太神宮参詣記』の古写本が、肥前島原城主松平忠房からは中国最古の史書の1つとされる『古文尚書』(13巻、明経道(みょうぎょうどう)博士の清原家に伝えられていた鎌倉時代の写本。神宮徴古館所蔵の重要文化財)が、安政4年(1857年)には水戸藩主徳川斉昭から『大日本史』の初摺本を寄贈されるなど、多くの学者からの書籍の寄贈が相次ぎ、豊宮崎文庫の蔵書は20,000冊を超えることになる。 日本各地の学者らの協力は書籍の寄贈にとどまらず、室鳩巣・貝原益軒・伊藤東涯などの学者が豊宮崎文庫を訪れ講演を行なった。
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