はやしざきぶんこ 【林崎文庫】
林崎文庫
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豊宮崎文庫設立から約40年後の貞享3年(1686年)、内宮周辺の自治を行なっていた宇治会合年寄(うじかいごうとしより)らが中心となり、内宮に豊宮崎文庫と同様の文庫を設立する計画を立てた。山田奉行岡部駿河守勝重が江戸幕府から150両の下付を受け、翌貞享4年(1687年)に五十鈴川西岸の丸山(現在の宇治今在家町の内宮前駐車場)に内宮文庫(ないくうぶんこ)が設立された。しかし丸山は多湿で文書の保管に不適切と判断され、3年後の元禄3年(1690年)に丸山の北に隣接する林崎に移転、林崎文庫と改称した。しかし林崎文庫は豊宮崎文庫と違い経営主体を整備せず幕府の援助に頼ったため、100年経たないうちに荒廃してしまう。 この状況に嘆き立ち上がったのが国学者の谷川士清の娘婿で、内宮権禰宜兼副物忌父職を勤めていた蓬莱(荒木田)尚賢である。国学者の賀茂真淵にも学才を認められていた尚賢は天明2年(1782年)に書庫・講堂・塾舎などを整備、江戸・京都・大坂に献本の取次所を設けるなど尽力した。古くから尚賢と交友関係にあった本居宣長は『林崎のふみくらの詞』を著し林崎文庫の存在を称揚するなどで協力、京都で古書販売を営んでいた勤思堂の村井敬義は尚賢に感銘し、延宝9年(1681年)2月写の『一代要記』などの多くの貴重図書を含む2,602部を寄贈した。最終的には林崎文庫の蔵書は10,978冊を数えた。
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