閉庫以降とは? わかりやすく解説

閉庫以降

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/20 06:42 UTC 版)

豊宮崎文庫」の記事における「閉庫以降」の解説

明治元年の閉庫に伴い講堂度会府管轄学校(豊宮崎学校)とされ、書庫図書始めとする文庫一切は籍中から府へと移管された。翌2年1869年3月明治天皇神宮行幸に際して書庫剣璽奉安所とされ、学校は翌3年6月林崎学校内宮林崎文庫後身)を吸収合併して度会県学校となって光明寺へと移転し蔵書等財産は旧籍中に還付された。その後学校経費支弁困窮理由に翌4年1月廃校休校)とされたが、これを惜しんだ地元有力者奔走した結果宮川渡賃過剰金を充てることで同5年8月文庫が英語等を課す宮崎郷学校として復し、同6年5月にこれを小学初等)・中学高等)の2部分けて小学部宮崎小学校中学部宮崎語学校と改称、同7年4月には下馬所前野町(げばどころまえのまち。現伊勢市豊川町にあった小学校教員講習所移転して同年8月にこれを度会県師範学校改称し宮崎小学校をその附属したものの翌9月師範学校は現岡本1丁目の旧師上部貞亨邸へと転出し、同8年12月には語学校も廃校とされた。その後明治9年からは講堂神宮教院の山田説教所として使用されるうになるが、次に見る同11年火災によりこれも転出した明治11年2月14日深夜放火によって講堂焼失したものの、書庫と籍中の三日市大夫家に預け置かれていた蔵書什器は難を逃れ、同14年10月書庫維持を図るために旧籍中が協議の上文庫衆という法人組織結成して16箇条からなる規則定めと共に籍長以下の諸役設けて経営に当たることとなる。文庫衆は翌15年火災免れた書庫改築等を行うもその後鼠の荒み加えて書籍流出生じる等経営行詰まり明治末に蔵書神宮献納するという計画出た代償として若干金銭求めたために頓挫し結局は43年1910年)に土地建物蔵書宇治山田市旅館宇仁館経営者西田貞助に売却して文庫衆は解体した。ところが、暫時の後に蔵書一部京都好事家売却されたことが発覚して物議を醸しなお一層散逸のおそれから翌44年2月26日神宮崇敬団体である神苑会図書18,000余冊、什器28点を17,000円で購入し3月6日にこれらと併せて20,745冊を「旧豊宮崎文庫図書」として神宮献納図書神宮文庫に、什器神宮徴古館収蔵されることとなり、文庫跡地大正12年1923年3月7日に「旧豊宮崎文庫」として国の史跡指定された。なお、神宮文庫継受された貴重書籍には肥前島原藩初代藩主松平忠房献納の『古文尚書13巻国の重要文化財)、林羅山春秋三伝林家歴代詩文集、渋川春海自筆の『日本長暦』(重要文化財)、水戸藩による『大日本史』初摺本大塩中斎洗心洞箚記』、津藩藩校有造館板『資治通鑑』、伊勢本『和名類聚抄』等があり、徴古館継受什器には藤原秀郷佩刀伝えられる毛抜形太刀等があるが、その他渋川春海自製天球儀地球儀あったらしい。

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「閉庫以降」を含む「豊宮崎文庫」の記事については、「豊宮崎文庫」の概要を参照ください。

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