閉庫以降
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明治元年の閉庫に伴い講堂は度会府管轄の学校(豊宮崎学校)とされ、書庫内図書を始めとする文庫の一切は籍中から府へと移管された。翌2年(1869年)3月明治天皇の神宮行幸に際して書庫が剣璽の奉安所とされ、学校は翌3年6月に林崎学校(内宮林崎文庫の後身)を吸収合併して度会県学校となって光明寺へと移転し、蔵書等の財産は旧籍中に還付された。その後、学校は経費支弁の困窮を理由に翌4年1月に廃校(休校)とされたが、これを惜しんだ地元有力者が奔走した結果、宮川の渡賃過剰金を充てることで同5年8月に文庫が英語等を課す宮崎郷学校として復し、同6年5月にこれを小学(初等)・中学(高等)の2部に分けて小学部は宮崎小学校、中学部は宮崎語学校と改称、同7年4月には下馬所前野町(げばどころまえのまち。現伊勢市豊川町)にあった小学校教員講習所を移転して同年8月にこれを度会県師範学校と改称し宮崎小学校をその附属としたものの翌9月に師範学校は現岡本1丁目の旧師職上部貞亨邸へと転出し、同8年12月には語学校も廃校とされた。その後、明治9年からは講堂が神宮教院の山田説教所として使用されるようになるが、次に見る同11年の火災によりこれも転出した。 明治11年2月14日深夜、放火によって講堂が焼失したものの、書庫と籍中の三日市大夫家に預け置かれていた蔵書・什器は難を逃れ、同14年10月、書庫の維持を図るために旧籍中が協議の上で文庫衆という法人組織を結成して16箇条からなる規則を定めると共に籍長以下の諸役を設けて経営に当たることとなる。文庫衆は翌15年に火災を免れた書庫の改築等を行うもその後は蠹鼠の荒みに加えて書籍の流出も生じる等経営に行詰まり、明治末に蔵書を神宮へ献納するという計画も出たが代償として若干の金銭を求めたために頓挫し、結局は同43年(1910年)に土地、建物、蔵書を宇治山田市の旅館宇仁館経営者西田貞助に売却して文庫衆は解体した。ところが、暫時の後に蔵書の一部が京都の好事家へ売却されたことが発覚して物議を醸し、なお一層の散逸のおそれから翌44年2月26日に神宮崇敬団体である神苑会が図書18,000余冊、什器28点を17,000円で購入し、3月6日にこれらと併せて計20,745冊を「旧豊宮崎文庫図書」として神宮に献納、図書は神宮文庫に、什器は神宮徴古館に収蔵されることとなり、文庫の跡地は大正12年(1923年)3月7日に「旧豊宮崎文庫」として国の史跡に指定された。なお、神宮文庫に継受された貴重書籍には肥前島原藩初代藩主松平忠房献納の『古文尚書』13巻(国の重要文化財)、林羅山の春秋三伝や林家歴代の詩文集、渋川春海自筆の『日本長暦』(重要文化財)、水戸藩による『大日本史』初摺本、大塩中斎『洗心洞箚記』、津藩藩校有造館板『資治通鑑』、伊勢本『和名類聚抄』等があり、徴古館継受の什器には藤原秀郷の佩刀と伝えられる毛抜形太刀等があるが、その他渋川春海自製の天球儀と地球儀もあったらしい。
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