与村弘正
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与村 弘正(よむら ひろまさ)は江戸時代前期の伊勢国豊受太神宮(外宮)の祠官。伊勢北畠家の庶流と伝える与村弘宣の長男に生まれ、弟に黒沢弘忠がいた[3]。通称三之丞。
- ^ 宇治山田市役所編『宇治山田市史』下巻第十二篇第六章「公益」。なお、参考までに弟弘忠の生年は慶長17年(1612年)である。
- ^ 大西源一 1914, p. 715.
- ^ a b 大西源一 1914, p. 477.
- ^ 前掲市史。
- ^ 安弘忠編述『本朝烈女伝』に寄せられた源弘正「後序」。なお、本書刊行は寛文8年(1668年)であるが、弘忠の自序や弘正後序に明暦元年(1655年)とあるのでこの頃の成立と考えられている(奈良女子大学学術情報センター「本朝烈女傳 解説」、平成26年11月24日閲覧)。
- ^ 宮掌大内人は大神宮内の雑務を職掌とする。もっとも、当代においては職名のみで実際の勤役は無かった(大西源一『大神宮史要』(平凡社、昭和35年(1960年))第1編第6項「物忌と内人」)。
- ^ 前掲市史、弘正前掲後序、平出鏗二郎「度會延佳及び其神學(承前)」(『史學雜誌』第12編第6号、史學會、明治34年(1901年))。
- ^ 弘正前掲後序。なお、弘正母は彼の叙爵と所謂神訴の起きた翌々年、明暦2年(1656年)の正月3日に歿している(前掲市史同篇第七章第五節「其の他」)。
- ^ 源一前掲書第十三編第7項「承應の神訴」、鏗二郎前掲論考。
- ^ a b 大西源一 1914, p. 476.
- ^ 大西源一 1914, p. 479.
- ^ 大西源一 1914, p. 478.
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