与座岳陸軍補助施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/02 14:19 UTC 版)
与座岳陸軍補助施設 Yozadake Army Annex |
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与座岳サイト(1970年)
1970年の航空写真ではミサイルサイトと弾薬庫が黒塗りされている。 |
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沖縄南部の米軍基地(1970年時点)
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種類 | FAC6074 |
床面積 | 258,900㎡ |
施設情報 | |
管理者 | アメリカ軍 |
歴史 | |
使用期間 | 返還(1974年) |
与座岳陸軍補助施設(よざだけりくぐんほじょしせつ、英語: Yozadake Army Annex)は、沖縄県糸満市と八重瀬町にあったアメリカ軍ナイキ・ハーキュリーズのミサイルサイト。サイトAは陸上自衛隊「八重瀬分屯地」に移管され、また南側のサイトBは1974年に返還された。
概要
同地は琉球石灰岩台地の八重瀬岳の頂上北側に位置する。1945年の沖縄戦では日本軍の最終防衛線として激戦地となった。1950年代、アメリカとソ連の核開発が激化するなかで、米軍占領下の沖縄の米軍基地への核兵器配備が急速に進められた[1]。与座岳陸軍第一補助施設(「与座岳サイト」)にはホークミサイルが、また与座岳陸軍第二補助施設(「与座岳陸軍補助施設」)にはナイキ・ハーキュリーズが配備された。
1971年に日米が合意した沖縄返還協定了解覚書A表で、与座岳陸軍第一補助施設は「与座岳サイト」に、また与座岳陸軍第二補助施設は「与座岳陸軍補助施設」に改称され、継続使用の米軍基地として提供された。
八重瀬岳の頂上部分に位置する与座岳陸軍補助施設サイトAには、ナイキの管理施設として大型レーダーや事務所、兵舎が置かれ、南端の南部弾薬庫西側に位置する与座岳陸軍補助施設サイトBには、ナイキのミサイル発射施設と関連施設が配置された[2]。
- 名称: 与座岳陸軍第二補助施設(Yozadake Army Annex No. 2)
- 改称: 与座岳陸軍補助施設(Yozadake Army Annex)
- サイトA(八重瀬町側): 管理施設とレーダー
- サイトB(糸満市側): ミサイルランチャー
- 場所: 糸満市、東風平村、具志頭村
- 面積: 約258,900㎡[2]
旧称 | 改称 | 備考 | ||
FAC6273 | 与座岳第1陸軍補助施設 | 与座岳サイト | B表: 陸上自衛隊南与座分屯地 | |
FAC6074 | 与座岳第2陸軍補助施設 | 与座岳陸軍補助施設 | サイトA | B表: 陸上自衛隊八重瀬分屯地 |
サイトB | 1974年9月30日返還 |
歴史
1957年6月、アメリカ陸軍がナイキ・ハーキュリーズのミサイルサイトとして同地を接収、アメリカ陸軍第30防空砲兵旅団が「与座岳第二陸軍補助施設」として使用。
1969年頃、ニクソン・ドクトリンに基づく米軍基地の再編統合後、ナイキ施設が遊休化する[2]。
1972年5月15日、沖縄返還協定了解覚書B表により、サイトAが「陸上自衛隊与座分屯地(2006年1月6日、八重瀬分屯地に名称変更)」として自衛隊に移管される。サイトBは「与座岳陸軍補助施設」として継続して提供される。施設の使用目的は「倉庫」であった。サイトAのナイキミサイルサイトを自衛隊に提供し、遊休化した他の3か所のナイキ施設を「倉庫」として引き続きアメリカ軍に提供することは、日米が合意した「核抜き本土並み」のモットーにそぐわないと疑問の声があげられた[3]。
それから、ハーキュリーズの基地の中で、私たちの調べたところによりましては、いままでにナイキハーキュリーズの基地としてありましたAの21のボーロー・ポイント射撃場、それから読谷第一陸軍補助施設、Aの24の石川陸軍補助施設、Aの47の西原陸軍補助施設、Aの51の普天間飛行場、Aの74の与座岳陸軍補助施設、こういったものにつきましては、現在これが使われておりません。こうしたものにつきましては、ナイキハーキュリーズ基地という独立した機能を持っているものであり、他の施設、区域と連動すべきものではありません。したがって、こういう使われていないものは当然返還されるのが妥当だと思いますが、どうでしょうか。・・・事務所や倉庫ぐらいなら——沖繩の本島の中ではいま25%の面積を占めておるわけなんです。このA、B、C表のとおりやったとしても、21%が米軍基地です。そんなばかでかいところを占領しているアメリカ軍が、倉庫や事務所にそんなところをわざわざ使わなければならぬ理由がどこにあるでしょうか。返してもらうように努力するのがあたりまえじゃないでしょうか。 — 渡部一郎 第67回国会 衆議院 沖縄返還協定特別委員会 第6号 昭和46年11月16日
1974年9月30日に、サイトBが全返還される。返還地は果樹園などの農業用地や採石場として利用される[4]。
参照項目
- 沖縄の米軍基地 > 与座岳・八重瀬岳の米軍基地
- 陸上自衛隊 > 八重瀬分屯地
与座岳・八重瀬岳の米軍基地
FAC6272 | 与座岳航空通信施設 | 与座岳航空通信施設 | B表: 航空自衛隊与座岳分屯基地 C表 |
FAC6273 | 与座岳サイト | 与座岳第1陸軍補助施設 | B表: 陸上自衛隊南与座分屯地 |
FAC6074 | 与座岳陸軍補助施設 | 与座岳第2陸軍補助施設 | B表: 陸上自衛隊八重瀬分屯地 |
FAC6075 | 南部弾薬庫 | 南部弾薬庫 |
脚注
出典
- ^ “写真展「USCARの時代」第7回 – 沖縄県公文書館”. 2022年10月8日閲覧。
- ^ a b c 沖縄県「米軍基地環境カルテ - 与座岳陸軍補助施設」(平成29年3月)
- ^ 第67回国会 衆議院 沖縄返還協定特別委員会 第6号 昭和46年11月16日
- ^ 沖縄県「沖縄の米軍基地」(平成15年12月)573-574頁
与座岳陸軍補助施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 05:19 UTC 版)
「与座岳・八重瀬岳の米軍基地」の記事における「与座岳陸軍補助施設」の解説
1955年: 米軍が八重瀬岳の土地接収のための測量実施を東風平村に通達、住民は接収に抵抗した。 1957年6月: 米軍によって強制接収された。米陸軍第 30 防空砲兵旅団が「与座岳第二陸軍補助施設」として使用。 場所: 糸満市、東風平村、具志頭村 面積: 約258,900 ㎡ 与座岳陸軍補助施設サイトA: 北の山側にある施設はナイキのコントロール基地として大型レーダーや兵舎、事務所が設置された。サイトAとよばれる。 与座岳陸軍補助施設サイトB: 南側の具志頭側には核弾頭を搭載できるナイキ関連施設が構築された。サイトBとよばれる。 1959年、核・非核両用の高高度用迎撃ミサイルのナイキ・ハーキュリーズが米国内基地と同時期に沖縄に配備されはじめる。与座は第7サイトを担っていた。 ナイキ配備 備考 1 第1サイト ボロー・ポイント射撃場 (読谷) 返還 2 第2サイト 恩納ポイント (恩納サイト) 自衛隊へ移管 3 第3サイト 石川陸軍補助施設 (天願) 返還 4 第4サイト 西原第二陸軍補助施設 (ホワイト・ビーチ地区) 自衛隊に移管 5 第5サイト 普天間飛行場 6 第6サイト 知念第二サイト 自衛隊へ移管 7 第7サイト 与座岳サイト 自衛隊へ移管 8 第8サイト 那覇サイト 自衛隊へ移管 1969年頃: アメリカのニクソン大統領によるニクソン・ドクトリンで米軍基地の再編統合がおこなわれ、施設は事実上遊休化していた。
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