ナイキ・ハーキュリーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/20 05:00 UTC 版)
「沖縄の米軍基地」の記事における「ナイキ・ハーキュリーズ」の解説
1959年、核・非核両用の高高度用迎撃ミサイルのナイキ・ハーキュリーズが米国内基地と同時期に沖縄に配備された。米国立公文書館の資料によると、沖縄のナイキ・プロジェクト (Nike Project) はボローや恩納など8カ所で展開されたことが記されている。 ナイキ配備 備考 1 第1サイト ボロー・ポイント射撃場 (読谷) 返還 2 第2サイト 恩納ポイント (恩納サイト) 空自 恩納分屯基地に移管 3 第3サイト 石川陸軍補助施設 (天願) 返還 4 第4サイト 西原陸軍補助施設 (ホワイト・ビーチ地区) 返還 5 第5サイト 普天間飛行場 6 第6サイト 知念第二サイト 空自 知念分屯基地に移管 7 第7サイト 与座岳サイト 陸自 南与座分屯地に移管 8 第8サイト 那覇サイト 空自 那覇基地に移管
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ナイキ・ハーキュリーズ
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「ボーローポイント」の記事における「ナイキ・ハーキュリーズ」の解説
また区域北側の残波岬には1959年からMIM-14ナイキ・ハーキュリーズ地対空ミサイルが配備された。ほぼ米国内基地への配備と同時期であった。米国立公文書館の資料には、沖縄のナイキ・プロジェクト (Nike Project) は8カ所で展開されたことが記されている。また残波岬でハーキュリーズ発射実験の際には、復帰前にもかかわらず大勢の自衛隊員が招待されていた。以下、NARA の記録に記されているもの 1957年7月8日: ナイキ計画は沖縄8カ所という記載。 1962年3月6日: ミサイル訓練でボロー・ポイント射撃場から一回目のナイキミサイル発射、ホークミサイル発射の記載。 1957年10月31日: ナイキ・ミサイル第2回目発射の際、基地から北西約200mの瀬名波部落のキビ畑に火がつき、約200坪延焼の記載。 1965年1月22日: 沖縄返還の交渉が続けられる中、第3代琉球列島高等弁務官ポール・キャラウェイが、日本の自衛官と報道陣を招待し、ボーローポイントでナイキ・ハーキュリーズとホーク・ミサイルをデモンストレーションしたことをロイターが伝えた。読谷のホーク・ミサイル基地は、そのすぐ南側の読谷陸軍補助施設にあった。 ナイキ配備 備考 1 第1サイト ボロー・ポイント射撃場 (読谷) 返還 2 第2サイト 恩納ポイント (恩納サイト) 空自 恩納分屯基地に移管 3 第3サイト 石川陸軍補助施設 (天願) 返還 4 第4サイト 西原陸軍補助施設 (ホワイト・ビーチ地区) 返還 5 第5サイト 普天間飛行場 6 第6サイト 知念第二サイト 空自 知念分屯基地に移管 7 第7サイト 与座岳サイト 陸自 南与座分屯地に移管 8 第8サイト 那覇サイト 空自 那覇基地に移管
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