記録面での話題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 14:53 UTC 版)
タイガースの公式戦第1戦に開幕投手として1安打完封勝利を挙げた藤村は、第3戦も先発し同点から延長で、センター・平桝敏男の失策によりサヨナラ負け。タイガースの勝利・敗戦とも第1号となった。 1948年に日本で最初のサイクル安打を記録。この時は内野安打と通常の単打を含む5安打の猛打であった。1950年に2回目を記録、これは2リーグ制でも第1号であったが、1991年に松永浩美が記録するまでは唯一の「一人で二度」の記録の持ち主でもあった。ただ、当時はサイクル安打という概念が日本には紹介されておらず、藤村はまったく意識せずに記録を樹立した。このため、1965年にこれを記録した阪急のダリル・スペンサーが話題にして初めて過去の記録が見直され、藤村が日本で最初に記録していたことが判明するまでは「隠れた記録」であった。 同じ1948年12月2日に中日球場の杮落としとして開催された「東西対抗戦」で、レフトスタンド上段に中日球場第1号本塁打を放つ。 1949年、当時のプロ野球新記録となる46本塁打を放ったが、それまでの記録は1948年青田昇、川上哲治の25本であり、一気に21本更新したことになる。 俗に「当て馬」と呼ばれる先発メンバーの偵察要員を初めて使ったのは阪神で、プロ野球初の偵察作戦を考案したのは藤村である。現在公式戦に於いては予告先発制度が導入されていることから偵察メンバーが用いられることはなくなったが、相手チームの先発投手が左腕か右腕か判らない時などに、スターティングオーダーの一つの守備位置にその試合で起用する予定のない自軍の投手(基本は先発投手を用いる)をダミーとして起用し、相手投手が判った際に別の野手と交代させる作戦がそれまではあった。1950年4月22日、熊本の水前寺で行われた対中日ドラゴンズ戦では、中日の先発が左腕の清水秀雄か、右腕の服部受弘か迷ったため、助監督兼内野手だった藤村が「それじゃ、トップに干場を入れておきましょう」と松木謙治郎監督に助言し、これを受け松木がメンバー表の1番に「左翼手・干場一夫」と書いて提出した。 1951年には珍記録を残している。この年10月7日の大洋戦で初めて「四番・投手藤村富美男」が実現し甲子園のファンはどよめいた。チーム順位が確定していたことからできたファンサービスで、松木監督の粋な采配であったが、藤村は先発して4回までしか投げていないのに勝利投手になった。公式記録員は名記録員といわれた広瀬謙三で、なぜルール上は?のつく勝利をつけてしまったのか、これは広瀬が「投手で四番」の藤村に敬意を払ってあえて勝利投手としたといわれている。のちにこの記録を整理した山内以九士が「原書通りの勝ち投手とする」という但し書きを付けた。 1953年には4月28日と29日に2試合連続して満塁本塁打を記録した。2010年現在、プロ野球では藤村を含めて6人が記録しているが、藤村はその第1号である(スポーツに関する日本一の一覧#野球を参照)。また、藤村の満塁本塁打は通算7本であるが、そのうちの1/3をこの2日で放ったことになる。 1956年6月24日の対広島カープ戦で、カープのエース・長谷川良平に0-1で迎え込まれた9回裏二死満塁から三塁ベースコーチに立っていた選手兼任監督・藤村は「ワシが代打や」と球審に告げて打席に入ると、左翼に豪快な代打逆転サヨナラ満塁本塁打を叩き込み試合を決めた。この逸話は「代打ワシ」として有名である。これが藤村生涯最後のホームランであった。 大阪タイガース創設と同時に入団したため阪神の背番号10は藤村しか着用したことがない。「1選手しかつけなかった背番号」は、全永久欠番のなかでも唯一の事例となっている。 現在までに日本野球機構(NPB)に加盟が認められた球団は21球団あるが、没後に創設された東北楽天ゴールデンイーグルスを除く20球団のうち藤村は現役時代に一軍公式戦において15球団と対戦し、更に引退後の国鉄コーチ時代の古巣・阪神、東映コーチ時代の2リーグ分立時に創設されたパ・リーグ3球団と合わせ合計19球団と対戦しており、この「選手・指導者問わず19球団と対戦」という記録は藤本定義と並ぶNPB最多記録である。
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記録面での話題
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プロ入り前は中京商業学校を史上初の夏連覇に導き、明治大学では初の4期連続優勝に導いている。プロ入り以降も、「戦後初の大型遊撃手」、「中部日本唯一の監督」(監督を引き受けたときは単に中部日本、1947年にチームがニックネームをドラゴンズとつけていた。チームは翌年中日に改称した)、「中日第1号監督」、「日本プロ野球初のナイトゲーム勝利チーム監督」、「中日がブルーの帽子・アンダーシャツをユニフォームに採用した初年度(1963年)の監督」など、「初」がついたものが多かった。 選手としても1948年に当時のシーズン最多補殺記録をつくっており(遊撃手として502補殺)、シーズン補殺数500越えは日本プロ野球史上初であった。遊撃手としての502補殺は2018年に源田壮亮が更新するまで70年の間プロ野球記録だった。
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