記録達成後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/04 15:55 UTC 版)
大記録を達成したネッチアイは一躍時の人となり、『エド・サリヴァン・ショー』の出演依頼もあったが、球団が出演を認めなかった。次にブリストルで登板した5月21日の試合には5,235人もの観客が詰め掛けた。観衆の前でネッチアイは再び24奪三振・被安打2という圧巻の投球を見せ、クラスB級のカロライナリーグ球団に昇格した。クラスD級ブリストルでの通算成績は43.0回を投げて防御率0.42・109奪三振を記録し、クラスB級では126.0回を投げてリーグ1位の172奪三振を記録した。 1952年8月10日にまだ20歳の誕生日が来て2ヶ月足らずながら、パイレーツでメジャーデビュー。当時パイレーツのゼネラルマネージャー(GM)だったブランチ・リッキーは「これまで見た偉大な3人の投手のうちの一人(他の2人はクリスティ・マシューソンとディジー・ディーン)」と究極の賛辞を述べていたが、パイレーツでは1勝6敗・防御率は7点台と結果を残せなかった。セントルイス・カージナルスのスタン・ミュージアルはネッチアイと雑談を交わした際に「この世界に居たいなら、ストライクを投げなさい」というアドバイスを彼に与えたという。 1953年1月にネッチアイは同世代の多くの若者と同様に朝鮮戦争で徴兵を受けたが、戦地で胃潰瘍が悪化して体重が激減してしまい、間もなく除隊した。その後にパイレーツへの復帰を焦って投げ急いだために回旋筋腱板が引き裂かれてしまい、1953年シーズンはあまり登板出来なかった。 1954年はパイレーツのスプリングトレーニングに参加したものの、結局シーズンで1試合も登板出来ないまま終わってしまった。 1955年はマイナーリーグで数試合登板したが、怪我を完全に克服する事は出来ず、このシーズン限りで現役を引退した。苦しんでいた胃潰瘍は引退後には再発しなくなったという。 引退後はフィッシング用品やハンティング用品の販売を手掛け、成功を収めた。
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