記録面でのトピック
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 15:58 UTC 版)
野村の残した3,017試合出場は日本プロ野球2位(パ・リーグ1位)の記録であるが、2015年7月28日に中日ドラゴンズの谷繁元信が記録を更新するまで、日本プロ野球1位の記録であった。これについて宇佐美徹也は「野村が本塁打記録よりも何よりも最も誇りに思っている記録なのだ。(中略)この出場記録の話になると目の輝きが違ってくる」と記している。この3,017試合中、捕手として出場した試合が2,921試合ある。宇佐美の著書の当時はMLBの捕手出場最多記録はアル・ロペスの1,918試合でこれを1,000試合以上上回っており、宇佐美は捕手の負担の重さも踏まえて「(このことを知ったら)米大リーグ関係者はびっくり仰天するに違いない」と記している。なお、MLBの記録は後に更新されており、2015年4月時点での記録はイバン・ロドリゲスの2,428試合となっている。宇佐美が野村に「もっと楽なポジションだったら?」と尋ねると、野村は「捕手の目を通して得たものは限りなく大きい。捕手だからできたのさ」と答えたという。 パンチョ伊東は、野村が1963年に150試合全部それもフルイニング出場したことをアメリカ人記者に話したところ、正に信じられないといった顔付きで「全く信じられない。捕手で全試合、全イニングなんて彼は一体その選手はどんな物凄い体をしてるんだ」と驚いたという。MLBではダブルヘッダーでは捕手を併用することが多く、全イニングどころか全試合も不可能に近いとされている。「捕手は投手を除く他の守備位置とは疲労度が違う。ほとんど投手と同じくらいと言っていいぐらいだ」とMLB各監督は共通して語っているほどで、ダブルヘッダーでは続けて被らせないようにしている。伊東は「ひょっとして世界最強チームを選ぶ際、野村の名が挙がる事もあるんじゃないか」と思えるほど値打ちがあると述べている。 ただし、その出場試合数の多さがネックとなることもあり、通算併殺打の378回、シーズン最多併殺打8回という負のイメージのある日本記録ホルダーでもある。通算併殺打は2019年5月4日にMLBのアルバート・プホルスに並ばれるまで、メジャーリーグにも記録した選手はいなかった。 野村は1956年から1977年まで22年間の長期にわたって南海の正捕手の座を死守した。この期間に38人の選手が捕手として南海に入団したが、そのうち22人が一度も一軍の試合でマスクを被ることが出来なかった。100試合以上を捕手として出場出来たのは柴田猛(165試合)と松井淳(101試合)の2人のみである。2014年8月27日、中日ドラゴンズの谷繁元信が捕手として2,922試合目の公式戦出場を達成し、野村の引退から34年にして記録を更新した。 2リーグ制となった1950年以降、日本プロ野球において捕手が打撃三部門(打率、本塁打、打点)のタイトルを獲得した例は22回あるが、そのうち17回は野村によるものである(ほかに田淵幸一、古田敦也、阿部慎之助、森友哉がタイトルを獲得している)。このうち、2020年終了時点で三冠王獲得と年間50本塁打以上達成をしたのは野村だけである。 2020年終了時点で通算本塁打数は657本で歴代2位だが、捕手登録選手では歴代1位、そして500本塁打以上を達成しているのは野村だけである。 選手としてオールスターゲーム通算21回出場、48安打の最多記録を持ち、最年長出場選手(1980年、45歳)でもあるが、オールスターでは打撃不振で知られた。しかし1972年のオールスターゲーム 第1戦では、谷村智博から本塁打を放つなど2安打3打点と活躍、初のMVPを獲得した。1977年のオールスターゲーム 第2戦でも先制打を放ち、42歳にして2度目のMVPを手にしている。 江夏豊のオールスターゲームの連続奪三振記録を止めたのは野村である。オールスター9連続奪三振を達成した前年の1970年、江夏はオールスターゲームを5連続奪三振で終えていたため、2年越しの14連続奪三振を達成したことになる。その後、第3戦(1971年7月20日、後楽園)の6回に登板した江夏は、代打江藤慎一で15連続奪三振を達成。次の打者となった野村は、ボールに当てることを優先し、セカンドゴロで連続奪三振を止めた。野村は、「パ・リーグで育った者として、連続だけはなんとしても止めたかった」とコメントしている。 通算117盗塁を記録。そのうちホームスチールが7回、三盗は2回ある。中学生までは足が速かったと語るが、誰も信用してくれないという。1972年には、2度ホームスチールを試み、2度とも成功させている(福本豊は7度挑戦して成功は1度)。「盗塁は足でするものではなく、頭でするもの」が持論であった。ただし、ホームスチールに関しては21回試みていたことから、14回も失敗しているワースト記録の持ち主でもある。 当時の日本のプロ野球を取り巻く世情は人気面・知名度いずれも巨人を中心としたセ・リーグ偏重傾向が現在より圧倒的に高かったため、同時期にセ・リーグで活躍していた巨人の長嶋茂雄や王貞治に比べて世間からの注目は少なく、今に伝えられる野村の打者としての評価も目立たないものである。1975年5月22日、野村が史上2人目の600号本塁打を達成(後楽園球場)したときの観客はわずか7,000人ほどであった。野村はこの試合後のインタビューで「自分をこれまで支えてきたのは、王や長嶋がいてくれたからだと思う。彼らは常に、人の目の前で華々しい野球をやり、こっちは人の目のふれない場所で寂しくやってきた。悔しい思いもしたが、花の中にだってヒマワリもあれば、人目につかない所でひっそりと咲く月見草もある」と答え、それ以後「月見草」が野村の代名詞となった。 打撃部門で多くの記録を残したが、年間最多本塁打の記録を更新した翌年の1964年に王に更新され(55本塁打)、1973年に通算最多本塁打の記録を(約2週間の攻防の末)王に、1978年には一晩のうちに通算最多打点を王に、通算最多安打を張本勲(当時巨人)に破られるという経験もしている。また、1977年には規定打席到達者の中では最低打率であったが、これによって野村は最高打率(首位打者)と最低打率の両方を経験した初めての打者となった。
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