解散時に在籍していたメンバーとは? わかりやすく解説

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解散時に在籍していたメンバー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 00:26 UTC 版)

ガセネタ (バンド)」の記事における「解散時に在籍していたメンバー」の解説

浜野純ギター/→不失者)解散時18才。元連続射殺魔、後に灰野敬二の不失者にベーシストとして参加本人曰く生傷が耐えなかった」という性急凶暴なギター演奏は「クスリ臭いギター」と評され吉祥寺マイナー出入りしていた非常階段JOJO広重など当時アンダーグラウンドミュージシャンにも多大な影響与えた。また不失者では大音響ベース弾いてライブハウスの壁を倒壊させたという伝説もある。こうした浜野演奏について後に現代音楽研究家となる大里俊晴も「どうして一本ギターから、六本しかない弦から、十本しかない指で、彼があんな音を引き出すことが出来たのか今でも思議堪らない」と評している。ちなみに大里俊晴著『ガセネタ荒野によれば浜野ギターの弦では一番太いものを張っており、さらに六弦にはベース用の弦を張っていたといわれている。また浜野プリンス愛用していたマッドキャットというギター使っており、基本的にテレキャスター・モデルしか使わなかった。前掲によればフェンダー中でも、最も“遊び”の少なギターだったから」とのこと。当然、浜野両手過激な演奏で血に染まるのは日常茶飯事であった後期ドラムス吉祥寺マイナー店長佐藤隆史次のように証言している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ガセネタ練習ってすごいきびしくてね。やっぱ、許してくれないの果てるまでやらなきゃ、許してくれない気を抜くとねぇ、みんなに罵倒される。うまいかどうかじゃなくてもう、全力疾走で、できなくなるまでやれ!って感じで。必ず血だらけになってたよ。浜野も手が血だらけになるし、大里椎間板ヘルニアになっちゃったし、俺もヘトヘトになって手からやっぱ血出すまでやるって感じそこまでやらないと、許してくれない山崎とか、その辺ヘラヘラしてるけど、浜野はきびしかったな。それはそれはストイックでしたよ。 大里いわく、浜野はたいへん早熟な天才美青年であったようで、わずか10代半ばにして「削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ」と語ったことでも知られる。これは過剰速度1970年代末駆け抜けガセネタ精神性象徴する言葉となった。なお浜野は後にガセネタ時代振り返ってアングラってさ、伝説になりやすいんだよ」「伝説とかいっても、ガセネタ実際に観た人は、30人いないんじゃないか」と自嘲気味な皮肉まじりの回想行っている。 1992年ガセネタ1stアルバム『SOONER OR LATER』リリースにあたって明治大学現代音楽ゼミ主宰していた園田佐登志浜野音源化の許諾求めたところ、遠い過去の話でしかなかったのか「(ガセネタに)自分が関わっていたとは最早思えなくなっている」として印税受け取り辞退するの手紙を園田出している。 大里俊晴ベース/→タコ解散時21才。ガセネタ伝記的小説ガセネタ荒野著者ガセネタ解散後タコギタリストとして参加早稲田大学文学部卒業後、パリ第8大学現代音楽美学学びダニエル・シャルル師事する芸術研究科修士課程および研究課程修了後、1998年から横浜国立大学教育人間科学部助教授就任2009年他界するまで「ガセネタ」「タコ」の音源30年間所蔵した1992年ガセネタ荒野の上にあたってガセネタ結成のきっかけ作った園田佐登志に「この本は、園田さんへの僕からの最終返答だと思って下さい。僕の言うべきことはこれで総てです。僕はもう二度とガセネタについて発言することはなでしょう」という旨の手紙を送ったのち沈黙貫き通し2009年死去同書生前唯一の単著となった生前最後の言葉は「ガセネタは凄いバンドだった。あんなバンド、ない」「ジミ・ヘンはここで死なない」。 生前は大変シャイな性格だったとされ、いつも黒いサングラスにチューリップハットをかぶり、観客背後向いて演奏行っていた。 2005年横浜国大が行ったインタビューでは「ガセネタ」「タコ」の名前こそ出さなかったものの、当時音楽活動についてハードロック極限まで煮詰めていったらどうなるかということをやっていて、自分でももう触れたくないほどハードな生活でした。それは、昔、熱愛してた彼女をもう思い出したくも会いたくもない、みたいな感じです。ただそこで、ロックパッションみたいなものはしぼり出しちゃったので、もうこの方向ではあまり先へ行けないなという気になっていたんです。でも勉強だとまだいける気がして、そっちへ向かったんです」と語っていた。 元タコ白石民夫は「ガセネタ唯一事務能力のある人間。俺は天才称される人間よりは、それを支えて、きちんとたたせてやってる人のほうが優れている人間だと思う。それに彼は官僚的でないでしょ。事務能力があって、官僚的でないって、大変なことだと思う」と評している。 佐藤隆史ドラムス/→ピナコテカ)初代ガセネタのメインドラマー(後期解散時23才。かつて吉祥寺存在した伝説ジャズ喫茶吉祥寺マイナー店長当時居場所がなかったガセネタ演奏スペース提供したため、ガセネタ後期ライブ佐藤企画したマイナーコンサートうごめく気配・きず」で行われた1955年香川県生まれ高校中退後、絵の勉強をするため上京その後ジャズピアニスト山下洋輔私淑しピアノ始める。ジャズ喫茶でのアルバイト経て1978年3月7日伝説ライブ喫茶吉祥寺マイナー」を開店するガセネタは「うごめく気配・きず」の1979年3月30日ライブ最後に解散その後は「愛欲人民十時劇場」「剰余価値分解工場」などのイベント主催し、この時にマイナー集まった有象無象連中が後にTACO発展した。しかし度重なる赤字計上騒音問題などでマイナー1980年9月28日閉店ほどなくインディーズレーベルピナコテカレコード」を発足させ、1983年にはTACO1stアルバム『タコ』山崎春美大里俊晴坂本龍一町田町蔵遠藤ミチロウ佐藤薫ロリータ順子らが参加した自主制作盤史上に残る伝説的名盤)をリリースした大里によれば佐藤は何でもそつなくこなしてしまう天才肌持ち主で、一度触ったとがない楽器でもすぐにマスターしたという。また大きめエレキピアノをばらばらに分解して小型ポータブル型改造するなど修繕修理も得意で、他にも絵画文筆現像配管工事はんだ付け複雑怪奇和文タイプライター打ち込みまで何でも広くこなした。しかし、その佐藤唯一できなかったことが皮肉にも喫茶店のマスターだったという。なぜなら彼は昼夜関係なく40数時間起き続けその後20数時間ぶっ通しで寝るという体内時計サーカディアン・リズム)に逆らった不規則な生活送っており、定期的に喫茶店開店することが事実上不可能だった為である。その後起こされるのが嫌になった佐藤電話押入れの奥にしまってしまい、彼の寝坊ライブ一方的にキャンセルされパンクスたちは壁のチラシびりびり破いてドアに「死ね」と落書きをして帰っていったという。大里いわく「エキセントリックなところのまるで無い、それでいてとても不思議な人間とのこと佐藤吉祥寺マイナー周辺については『ガセネタ荒野』『地下音楽への招待』『EATER'90s インタビュー集』などが非常に詳しい。

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