解散時に在籍していたメンバー
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「ガセネタ (バンド)」の記事における「解散時に在籍していたメンバー」の解説
浜野純(ギター/→不失者)解散時18才。元連続射殺魔、後に灰野敬二の不失者にベーシストとして参加。 本人曰く「生傷が耐えなかった」という性急で凶暴なギター演奏は「クスリ臭いギター」と評され、吉祥寺マイナーに出入りしていた非常階段のJOJO広重など当時のアンダーグラウンドなミュージシャンにも多大な影響を与えた。また不失者では大音響のベースを弾いてライブハウスの壁を倒壊させたという伝説もある。こうした浜野の演奏について後に現代音楽研究家となる大里俊晴も「どうして一本のギターから、六本しかない弦から、十本しかない指で、彼があんな音を引き出すことが出来たのか今でも不思議で堪らない」と評している。ちなみに大里俊晴著『ガセネタの荒野』によれば、浜野はギターの弦では一番太いものを張っており、さらに六弦にはベース用の弦を張っていたといわれている。また浜野はプリンスが愛用していたマッドキャットというギターを使っており、基本的にテレキャスター・モデルしか使わなかった。前掲書によれば「フェンダーの中でも、最も“遊び”の少ないギターだったから」とのこと。当然、浜野の両手が過激な演奏で血に染まるのは日常茶飯事であった。後期ドラムスで吉祥寺マイナー店長の佐藤隆史は次のように証言している。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}ガセネタの練習ってすごいきびしくてね。やっぱ、許してくれないの。果てるまでやらなきゃ、許してくれない。気を抜くとねぇ、みんなに罵倒される。うまいかどうかじゃなくてもう、全力疾走で、できなくなるまでやれ!って感じで。必ず血だらけになってたよ。浜野も手が血だらけになるし、大里も椎間板ヘルニアになっちゃったし、俺もヘトヘトになって手からやっぱ血出すまでやるって感じ。そこまでやらないと、許してくれない。山崎とか、その辺ヘラヘラしてるけど、浜野はきびしかったな。それはそれはストイックでしたよ。 大里いわく、浜野はたいへん早熟な天才美青年であったようで、わずか10代半ばにして「削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ」と語ったことでも知られる。これは過剰と速度で1970年代末を駆け抜けたガセネタの精神性を象徴する言葉となった。なお浜野は後にガセネタ時代を振り返って「アングラってさ、伝説になりやすいんだよ」「伝説とかいっても、ガセネタを実際に観た人は、30人いないんじゃないか」と自嘲気味な皮肉まじりの回想を行っている。 1992年、ガセネタの1stアルバム『SOONER OR LATER』のリリースにあたって明治大学現代音楽ゼミを主宰していた園田佐登志が浜野に音源化の許諾を求めたところ、遠い過去の話でしかなかったのか「(ガセネタに)自分が関わっていたとは最早、思えなくなっている」として印税の受け取りを辞退する旨の手紙を園田に出している。 大里俊晴(ベース/→タコ)解散時21才。ガセネタの伝記的小説『ガセネタの荒野』著者。ガセネタ解散後、タコにギタリストとして参加。 早稲田大学文学部卒業後、パリ第8大学で現代音楽の美学を学び、ダニエル・シャルルに師事する。芸術研究科修士課程および研究課程修了後、1998年から横浜国立大学教育人間科学部助教授に就任。2009年に他界するまで「ガセネタ」「タコ」の音源を30年間所蔵した。 1992年『ガセネタの荒野』の上梓にあたってガセネタ結成のきっかけを作った園田佐登志に「この本は、園田さんへの僕からの最終返答だと思って下さい。僕の言うべきことはこれで総てです。僕はもう二度とガセネタについて発言することはないでしょう」という旨の手紙を送ったのち沈黙を貫き通し、2009年に死去。同書が生前唯一の単著となった。生前最後の言葉は「ガセネタは凄いバンドだった。あんなバンド、ない」「ジミ・ヘンはここで死なない」。 生前は大変シャイな性格だったとされ、いつも黒いサングラスにチューリップハットをかぶり、観客の背後を向いて演奏を行っていた。 2005年に横浜国大が行ったインタビューでは「ガセネタ」「タコ」の名前こそ出さなかったものの、当時の音楽活動について「ハードロックを極限まで煮詰めていったらどうなるかということをやっていて、自分でももう触れたくないほどハードな生活でした。それは、昔、熱愛してた彼女をもう思い出したくも会いたくもない、みたいな感じです。ただそこで、ロックのパッションみたいなものはしぼり出しちゃったので、もうこの方向ではあまり先へ行けないなという気になっていたんです。でも勉強だとまだいける気がして、そっちへ向かったんです」と語っていた。 元タコの白石民夫は「ガセネタで唯一事務能力のある人間。俺は天才と称される人間よりは、それを支えて、きちんとたたせてやってる人のほうが優れている人間だと思う。それに彼は官僚的でないでしょ。事務能力があって、官僚的でないって、大変なことだと思う」と評している。 佐藤隆史(ドラムス/→ピナコテカ)初代ガセネタのメインドラマー(後期) 解散時23才。かつて吉祥寺に存在した伝説のジャズ喫茶「吉祥寺マイナー」店長。当時居場所がなかったガセネタに演奏スペースを提供したため、ガセネタ後期のライブは佐藤が企画したマイナーのコンサート「うごめく・気配・きず」で行われた。 1955年、香川県生まれ。高校中退後、絵の勉強をするため上京。その後、ジャズピアニストの山下洋輔に私淑しピアノを始める。ジャズ喫茶でのアルバイトを経て1978年3月7日に伝説のライブ喫茶「吉祥寺マイナー」を開店する。 ガセネタは「うごめく・気配・きず」の1979年3月30日のライブを最後に解散。その後は「愛欲人民十時劇場」「剰余価値分解工場」などのイベントを主催し、この時にマイナーに集まった有象無象の連中が後にTACOに発展した。しかし度重なる赤字計上と騒音問題などでマイナーは1980年9月28日に閉店。ほどなくインディーズレーベル「ピナコテカレコード」を発足させ、1983年にはTACOの1stアルバム『タコ』(山崎春美、大里俊晴、坂本龍一、町田町蔵、遠藤ミチロウ、佐藤薫、ロリータ順子らが参加した自主制作盤史上に残る伝説的名盤)をリリースした。 大里によれば佐藤は何でもそつなくこなしてしまう天才肌の持ち主で、一度も触ったことがない楽器でもすぐにマスターしたという。また大きめのエレキピアノをばらばらに分解して小型のポータブル型に改造するなど修繕や修理も得意で、他にも絵画や文筆、現像、配管工事、はんだ付け、複雑怪奇な和文タイプライターの打ち込みまで何でも広くこなした。しかし、その佐藤が唯一できなかったことが皮肉にも喫茶店のマスターだったという。なぜなら彼は昼夜関係なく40数時間起き続け、その後20数時間ぶっ通しで寝るという体内時計(サーカディアン・リズム)に逆らった不規則な生活を送っており、定期的に喫茶店を開店することが事実上不可能だった為である。その後、起こされるのが嫌になった佐藤は電話を押入れの奥にしまってしまい、彼の寝坊でライブを一方的にキャンセルされたパンクスたちは壁のチラシをびりびりに破いてドアに「死ね」と落書きをして帰っていったという。大里いわく「エキセントリックなところのまるで無い、それでいてとても不思議な人間」とのこと。佐藤と吉祥寺マイナー周辺については『ガセネタの荒野』『地下音楽への招待』『EATER'90s インタビュー集』などが非常に詳しい。
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