浜野純
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浜野 純 | |
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生誕 | 1960年 |
学歴 | 世田谷区立松沢中学校卒業 日本大学芸術学部卒業 |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1975年 - 1979年 |
著名な家族 | 浜野卓也(父) |
共同作業者 |
浜野 純(はまの じゅん、1960年 - )は、日本のロックミュージシャン、ギタリスト、ベーシスト。父は児童文学作家の浜野卓也[1]。
1970年代後半に活動した前衛的なロックバンド「ガセネタ」の中心人物。唯一無二のギター・サウンドにより、東京のアンダーグラウンド・シーンで圧倒的な存在感を放つも、10代後半で音楽シーンから完全に姿を消した[2]。
略歴・人物
生い立ち
浜野純の特異な音楽的感受性は、極めて早い時期から育まれており、小学6年生でキャプテン・ビーフハートに傾倒する[4]。吉祥寺マイナー店主/ピナコテカレコード主宰者の佐藤隆史によれば、浜野は小学生の頃から灰野敬二と交流があり、1971年8月に開催された野外音楽イベント「日本幻野祭」におけるロスト・アラーフのステージにも立ち会っていたという[5]。浜野は当時わずか11〜12歳(小学5~6年生)であり、事実であれば、その年齢で既に前衛音楽の現場に身を置いていたことになる。その後も浜野は灰野から多くの影響を受けており、重いリズムと轟音のファズギターで知られるブルー・チアーの存在は灰野から教わったという[6]。一方、浜野は「中学の頃に灰野さんと遊びでやっていたセッションは、モロにビーフハート風だった」と振り返っている[3]。
高校時代にはさらに音楽的関心を広げ、クラウトロックやアヴァンギャルドに加え[7]、フリー・ジャズや現代音楽にも強い興味を抱くようになった。とりわけ、西ドイツのフリージャズ・ドラマーであるデトレフ・シェーネンベルクの来日公演にも興味を示すなど、フリー・インプロヴィゼーションへの関心も早くから芽生えていたという[8]。
こうした幅広い音楽的志向は、ロックをベースとしながらも、楽曲の構造が流動的で展開が即興的に変化するインプロヴィゼーションの要素を織り交ぜたガセネタの演奏スタイルへとつながっていく。浜野のプレイは、いわゆるパンク・ロックとは異なり、ロックのなかに瞬間的な即興の面白さを取り込むという点で、灰野敬二や突然段ボール、工藤冬里らとの共通性も指摘されている[9]。
浜野自身が語るところによれば、同時代に活動していたセックス・ピストルズや、反体制的なパンク・ムーブメントを意識したことはなく、むしろ「泣きのバラード」や「普通の音楽(ポピュラー音楽)」を好む傾向があり、ルーツ・ミュージックで知られるスプーナー・オールダム、ドニー・フリッツ、ロニー・レーンといった素朴で泥臭く情感豊かな音楽家たちを愛聴していた[3]。日本人歌手でも、大瀧詠一の「乱れ髪」や、あがた森魚の「リラのホテル」など繊細でメロウなフォークソングを好んだ[3]。
連続射殺魔からガセネタ、そして不失者
和田哲郎(現・琴桃川凛)の解説によると、浜野は1975年秋頃にサイケデリック・ロックバンド・連続射殺魔にベーシストとして参加したが、阿木譲の誘いで和田が関西に移住することになり、浜野は「大阪へ行くのは嫌だ、俺はいつまでも親のスネをかじって芸術ごっこがしたい」という理由で1976年12月にバンドを脱退したという[10]。ちなみに浜野が連続射殺魔に在籍していた時期に録音された音源は、1976年に制作されたカセット作品(1985年に自主制作盤『SHARL』としてLP化)で聴くことができる。
1976年、渡辺仁の紹介で園田佐登志主宰の明治大学・現代の音楽ゼミナールに参加[7][11]。そこで山崎春美や大里俊晴と知り合い、自称「最後のハードロック」バンド・ガセネタを結成、大学構内や吉祥寺マイナーを拠点にギタリストとして破天荒な演奏活動を行う。浜野の性急で凶暴なギター演奏は「クスリ臭いギター」とも評され、同時代のアンダーグラウンドなミュージシャンにも影響を与えた[12][13]。また浜野はギターの弦では一番太いものを張っており、六弦にはベース用の弦を張っていたという[14]。園田は浜野について次のように評している[15]。
ガセネタの大里俊晴は、浜野の弾くギターを初めて聴いたときの衝撃について次のように回想している[14]。
フル・アップにしたアンプから、気違いじみたスピードで、引き裂くような音が迸った。血が凍りついた。それは爆発だった。瞬時にして、ありとあらゆる音が四方に飛び散る。音のカオス。だが、どんな混濁もなく。総ての音が、一粒一粒その存在を主張しながら走り過ぎた。空気を切り裂く、澄み切った音の刃。僕は膝が震えるのを止められなかった。ざわついた中庭は、音もなく静まり帰った。いや、僕にはそう見えた。彼は緩んだ日常に、そのギターで、突然寒々しい裂け目を入れて見せた。(中略)その時既に僕は、その裂け目に落ち込んでしまっていたのだ。僕は引き返せなくなってしまった。
大里俊晴著『ガセネタの荒野』によれば、浜野は大変早熟な天才美青年だったようで、わずか10代半ばにして「削ぎ落とすんだよ。削ぎ落として、削ぎ落として、残った骨だけがぼおっと光っていればそれでいいんだ」と語ったという[14]。ちなみに元TACOの藤井海彦は『ガセネタの荒野』における浜野の口調や発言が和田哲郎に酷似していた点が気になったと述べている。藤井によれば、両者に共通していたのは、当時すでに時代遅れとされていたファズ[16]の使用と「同じ演奏を二度としない」という即興的な演奏姿勢ぐらいであり、両者の相違点として、和田が尊敬していたギタリストは水谷孝と山口冨士夫だけであったことを挙げている[17]。
1979年3月30日、ガセネタは解散[18]。その後は灰野敬二の不失者でベーシストとなるが[19][20]、ほどなく音楽活動から引退した。
引退後
1992年、ガセネタのCD化にあたって園田が音源使用の許諾を浜野に求めたところ「(ガセネタに)自分が関わっていたとは最早、思えなくなっている」ことを理由に、印税受け取りと献CDを辞退する旨の手紙を園田に出している[21]。その後、明治大学でのスタジオ・ライブを収録した『SOONER OR LATER』が、浜野と大里の協力を得られぬまま、1993年にPSFレコードからリリースされた。
佐藤隆史いわく「(浜野は)生きながら3回輪廻転生して普通人(会社員)として生活している」とのこと[22]。ただし2002年以降はメディア露出がなく、現況は不明だが、大里俊晴の元パートナー・渡邊未帆は、大里の没後に浜野と会ったことを記している[23]。
音楽評論家の中山義雄は、日大芸術学部の入学式で目撃した浜野の様子について「シド・バレットの目をしたブースカ」のようだったと語っている[3]。
作曲・編曲
- 雨上がりのバラード
(作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純) - 父ちゃんのポーが聞こえる
(作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純)※Tangerine Dreamのカバー[24] - 宇宙人の春
(作詞:山崎春美 / 作曲:浜野純) - 社会復帰
(作詞:山崎春美 / 作曲:大里俊晴)
(詞)虹に乗って猫を食べる僕は/真っ二つに切れるナイフ/ナイフとかしてロケット沈め/猫を擦り下ろす/船を襲う猫の幽霊/鶏を絞め殺し/キャラメルと遊ぶ/STOP!赤い炎揺らめき/天使の炎と燃えて/聖書燃やし蹴散らし/悪魔の炎と燃える光投げつけ/二つの頭持って/僕らはシャムの神さ/[スペイン語・聞き取り不能]/STOP!
鶏の首絞めようとし/キャラメル転がし遊び出して/[聞き取り不能]/チョコレートの銀の星/STOP!
- ひよこのたまご(作詞:浜野純 / 作曲:浜野純)
- 演奏不可能のため未確認
脚注
出典
- ^ “山崎春美選『ある放蕩息子の帰還 55歳にして初の単行本を上梓した問題児が問う「オレの選んだ100冊だ!文句あんのか。あ痛たたた。暴力反対!」』”. 山崎春美. 紀伊國屋書店 (2013年10月22日). 2018年4月10日閲覧。
- ^ 「ガセネタは、浜野のギターがすごかった。あれは技術だと思う。完成されてる部分があって、あいつしか弾けないようなギターだった。和田君とは全然違うよね。硬質だし」剛田武著『地下音楽への招待』第7章「『フリー・ミュージック・ボックス』の誕生と崩壊―園田佐登志の体験と記憶(その2)」ロフトブックス、2016年9月、186–187頁。
- ^ a b c d e 中山義雄「伝説かガセネタか 浜野純─You are so foolish man, my friend.」『ロック画報08』ブルース・インターアクションズ、2002年、86-87頁。
- ^ @pukka_white14 (2013年12月12日). "そういや、ガセネタのギタリスト、最初期の不失者のベーシスト、浜野純は小学6年生でキャプテン・ビーフハートを聞いていて、さすがの俺もたまげた、と灰野さんが言っていたことを思い出した。". X(旧Twitter)より2025年6月17日閲覧。
- ^ @fuziizenya (2017年12月21日). "ピナコテカの佐藤さんによるとガセネタの浜野純は小学生時から灰野さんの取り巻きで幻野祭のロストアラーフの現場にも居たという。もし事実なら当時11~2歳である。恐ろしい。". X(旧Twitter)より2025年6月15日閲覧。
- ^ ECD『いるべき場所』メディア総合研究所、2007年 (Kindle版, 位置No.全2459中 966 / 39%。ISBN 978-4944124268)
- ^ a b 1976年 渡辺仁(『ロック・マガジン』初期スタッフ)からの手紙 - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
- ^ 「連続射殺魔は、東京ロッカーズとは全然別ですよ。だって、ジャーマン・ロックも入ってるし、特に一作目はやたらいろんなものが入ってる。で、ギターの和田(哲郎)君は、ジミ・ヘンの直系なんだけれども、ジャズも入ってる。彼らはいろんなものを聴いてたんです。日本にクリストマン&シェーネンベルクが来たとき、浜野(純)が『園田さん、今度シェーネンベルクという人、来ますよね』って言うんですよ。彼はそこらへんのジャズや現代音楽の動きにも、すごく興味を持ってたんです」剛田武著『地下音楽への招待』第7章「『フリー・ミュージック・ボックス』の誕生と崩壊―園田佐登志の体験と記憶(その2)」ロフトブックス、2016年9月、186頁。
- ^ 「でも、突然段ボールも含めると、ロック・インプロヴィゼーションなんです。そこは違うところ。灰野さんもそうだけど、延々とロックでインプロヴィゼーションをする。それは明らかに、いわゆるパンク・バンドとは違うじゃない? 演奏のなかに、瞬間的にインプロヴィゼーションの面白さ、即興演奏の面白さが入ってくるわけだから。それは、冬里たちもそうでしょう?」剛田武著『地下音楽への招待』第7章「『フリー・ミュージック・ボックス』の誕生と崩壊―園田佐登志の体験と記憶(その2)」ロフトブックス、2016年9月、187頁。
- ^ 琴桃川凛は、あまり浜野を良く思っていなかったようで「バカに解りやすい芸術家を演じたがる人間(気まぐれ、無口etc)を嫌悪するキッカケとなった奴」と評している。
- ^ 南部裕一「VOICE OF EDITOR #7」 - SMASHWEST(2021年1月1日)
- ^ JOJO広重「さらばガセネタ」『NOBODY』第36号、NOBODY編集部、2011年11月、140-141頁。
- ^ ECD『いるべき場所』メディア総合研究所、2007年 (Kindle版, 位置No.全2459中 946-987 / 38-40%。ISBN 978-4944124268)
- ^ a b c 大里俊晴著『ガセネタの荒野』より
- ^ 【すべてはもえるなつくさのむこうで 〜 Early Works Of Satoshi Sonoda, 1977 - 1978】(Uploaded audio, Reviews, etc.) - 椅子物語 / chairsstory(園田佐登志 公式ブログ)
- ^ エレキギターなどの音を意図的に歪ませて、潰れたような、ざらついた音(ディストーション)を生み出すエフェクト、またはそのエフェクター(機材)のこと。
- ^ @fuziizenya (2018年5月13日). "『ガセネタの荒野』を初めて読んだ時浜野の口調や発言が和田のそれに酷似していたのが気になった。でも共通していたのはファズ(当時は完全に時代遅れの遺物)使用と「同じ演奏を二度としない」位。大きな相違点は和田が尊敬していたのは水谷孝とフジオだけだった事。". X(旧Twitter)より2025年6月15日閲覧。
- ^ “ガセネタ Last Live at 吉祥寺マイナー「うごめく・気配・きず」1979.03.30「父ちゃんのポーが聞こえる」”. YouTube. 2025年6月16日閲覧。
- ^ “不失者 @ 渋谷・屋根裏 (1979-11-20)”. YouTube. 2025年6月16日閲覧。
- ^ https://f.hatena.ne.jp/chairs_story/20160614171511
- ^ 1992年頃『Sooner or Later』(ガセネタ)リリースに当たって(浜野純/葉書) - 園田佐登志 Flyer Collection etc. 1975 - 1990: Original Sources
- ^ @fuziizenya (2018年5月21日). "ガセネタ浜野純の父親は教育界の権威で春美によると亡くなった際、新聞に訃報が載ったという。にも関わらずその実家の表札が亡き父名義のままだという。94年にピナコテカ佐藤さんが言うには生きながら3回輪廻転生して普通人として生活してるとの事だったが。". X(旧Twitter)より2025年6月7日閲覧。
- ^ Watanabe Miho「Afterword」『Gaseneta Wasteland』大里俊晴著/加藤・デビット・ホプキンズ訳、Public Bath Press社、2017年1月、163-166頁。
- ^ @Osaka_Sakaguchi (2022年3月12日). "もう44年程前の話だが、浜野純さんからガセネタの「父ちゃんのポーが聞こえる」は Tangerine Dream のカバーだと教えて頂いた。それは多分 "Electronic Meditation" 収録 'Journey Through a Burning Brain' のことだと思う。8分45秒辺りからの展開がそうではないかと…。画像は、昨年の再発品。". X(旧Twitter)より2022年3月19日閲覧。
濱野純
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濱野 純 | |
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出身校 | 東京大学 |
職業 | ソフトウェアエンジニア |
雇用者 | |
著名な実績 | Gitの開発者・メンテナ |
公式サイト | git-blame |
濱野 純 (はまの じゅん、英語: Junio C Hamano) は、カリフォルニア在住[1]の日本のソフトウェアエンジニアである。現在はGoogleに勤務している[2]。2005年7月26日(最初のリリースから2ヶ月後)からGitのメンテナーであることで知られている[3][4]。リーナス・トーバルズは、Gitが大きく成功した要因の一つに濱野の貢献があったと認識しており、メンテナーとして彼を信頼していると述べた[5]。
脚注
- ^ “gitster (Junio C Hamano)”. github.com. 2019年3月6日閲覧。
- ^ “Uses This / Junio C Hamano”. Uses This. 2019年3月6日閲覧。
- ^ Linux: Junio Hamano New Git Maintainer - ウェイバックマシン(2012年4月9日アーカイブ分)
- ^ Torvalds, Linus (26 July 2005). "Meet the new maintainer." Git Mailing List (Mailing list). 2019年3月6日閲覧。
- ^ “An Interview With Linus Torvalds”. TechCrunch (2016年3月19日). 2019年3月6日閲覧。
外部リンク
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