西方における復興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 05:33 UTC 版)
ユスティニアヌスの市民法大全は西方に配布され、ラヴェンナ総督府を含むユスティニアヌスの再征服戦争のもとで獲得した領域で公布された。『法学提要』はローマの法律学校と、その学校がその後移転したラヴェンナでテキストとされたが、再征服されたその他の殆どの領域で失われ、南イタリアのイタリア総督領(英語版)でのみビザンツ法の伝統を維持したが、市民法大全は、エクロガ法典(英語版)とバシリカ法典(英語版)にとって代わられた。市民法大全の条項は、教会関係のもののみ効果があっただけでだったが、それもカトリック教会の事実上の独立と東西教会の分裂で無意味となった。西欧では、市民法大全は、ゲルマン民族の継承諸国で多くのローマ・ゲルマン法を刺激したが、実際に用いられたのはテオドシウス法典であり、市民法大全ではなかった。 歴史家たちは市民法大全が1070年頃の北イタリアで発見されたということについては正確には一致していない。法律研究はグレゴリウス7世 (ローマ教皇)のグレゴリウス改革の教皇庁に代わって行われていたが、グレゴリウス改革が再発見を偶然にもたらしたのかも知れない[要出典]。Littera Florentina(英語版)(フィレンツェ本)(アマルフィで保管されてきて、その後ピサに移った6世紀の『学説彙纂』の写本)とEpitome Codex(綱要:1050年頃に発見された市民法大全の多くを含んだ不完全な写本)とは別に、多くの写本がテキストとして、イルネリウスとペポ(英語版)により、ボローニャで教えられ始めた。イルネリウスの技術は、声に出して読み、学生がそれを筆写することを許可されるというもので、ユスティニアヌスのテキストを解説し、内容に証明を与えることとはかけ離れていた。註解(英語版)の形式について[要出典]イルネリウスの弟子であるボローニャの四博士(英語版)は中世ローマ法(英語版)のカリキュラムを打ち建てた最初の註釈学派に属していた。その伝統はウルトラモンタニズムとして知られるフランスの法律家にも伝わった。 中世イタリアのコムーネ(英語版)の商人階級は素朴なゲルマン的口承法よりも、正義の概念とともに扱う法と、都会に固有の状況を取り扱う法を必要としていた。法典の起源は、神聖ローマ帝国において、古典遺産からの由緒ある先例の復活を見る学者たちにアピールした。新しい階級の法律家たちが、ヨーロッパの諸公国で必要とされはじめていた官僚制を担った。ボローニャ大学はユスティニアヌス法典を最初に教え、中世盛期を通じて法律研究の中心であり続けた。 『学説彙纂』の二巻本が1549年と1550年にパリで出版され、タラゴサの僧侶アントニオ・アウグスティン(彼はよく知られた法律事務家だった)により翻訳された。『学説彙纂』完全版の題名は『Digestorum Seu Pandectarum tomus alter』といい、アプド・カルロマン・ジラルドス(Apud Carolam Guillards)によって出版された。『学説彙纂』の第一巻は2934頁あり、一方第二巻は2754頁だった。市民法大全としてユスティニアヌス法典を参名付けたのは16世紀のディオニシウス・ゴトフレドゥスで、1583年に出版された。市民法大全の背後にある法律的思考は現代のもっとも大きな法改革である、封建制の廃止を達成したナポレオン法典骨格となった。ナポレオンはこれらの諸原理がヨーロッパじゅうに紹介されることを望んでいた、なぜなら彼は、ヨーロッパの民衆の残りの部分と支配階級の間で、より平等な社会とより自由な関係が創出される支配の効果的形式として法典を見ていたのだった。 市民法大全は19世紀に仏語、独語、イタリア語、スペイン語に翻訳された。しかし市民法大全の英訳はサミュエル・パーソンズ・スコット(英語版)が彼のバージョン「市民法」を出版する1932年までなかった。スコットは最善のラテン語版を用いて翻訳を行ったのではないため、彼の業績は批判されている。 フレッド・ブルム(英語版)は彼の『勅法彙纂』と『新勅法』翻訳のために尊重されているラテン語版を用いた。市民法大全の新しい英訳版はブルム訳に元付き2016年に出版された。2018年には、ケンブリッジ大学出版もギリシア語のテキストを底本とした『新勅法』の新しい英語版を出版した。
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