西方の謀士
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 00:25 UTC 版)
若い頃は評価されることがほとんどなかったが、漢陽の閻忠からは「張良・陳平のような智謀の持ち主」と高く評価された。 孝廉に選ばれ郎に就任するが、病気のため辞職した。帰郷の道中、漢の支配に従わない氐族の集団に遭遇し捕らえられた。同行していた数十人が全て殺されたが、賈詡は当時異民族に威名が知られていた涼州三明の一人だった太尉段熲の親族と偽り、「私を殺した後、手厚く葬ってくれれば、我が家が必ず遺体を手厚く引き取ることだろう」と遠回しに脅迫した。氐族側はそれを聞いて驚き、賈詡を解放した。 董卓が洛陽に入ると、賈詡は太尉掾・平津都尉・討虜校尉となり、陝に駐屯する牛輔の軍に付けられた。董卓が呂布・王允らに殺され、牛輔もまた死ぬと、同じく牛輔の下にいた李傕らに策を授け、長安を攻めさせて呂布を追い出し、王允を殺して長安を奪回させた。 長安に入ると左馮翊を担った。李傕らが、封侯や尚書僕射の地位で賈詡の功に報いようとしたが、賈詡はそれを辞退し、尚書となって人事を担当することで人々を助けた。李傕らは賈詡を親しみながらも恐れたという。また、李傕らが仲間割れを始めようとする度に、賈詡がこれを止めていた。しかし、賈詡が母の喪によって官を去り光禄大夫を拝命すると、李傕らが争いを始めたため、長安が破壊された。李傕は賈詡に宣義将軍として復帰するよう願った。李傕らが仲直りした後、献帝が長安を脱出し、大臣たちが殺されずに済んだのは、賈詡の力によるものだった。 献帝が長安を脱出したので、賈詡は印綬を返上し、同郡の段煨が駐屯している華陰に赴いた。しかし段煨が、内心賈詡に実権を奪われることを恐れていたため、これを察した賈詡は南陽郡にいる張繡の招きに応じ、彼に仕えることにした。賈詡の家族が段煨の元に残ったが、賈詡の予想通り、段煨は張繡との関係を気にしてこれを厚遇した。 賈詡は張繡に劉表と同盟することを進言し、自ら劉表と会見した上で、同盟を締結した。
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