西アフリカの探検
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:37 UTC 版)
「大航海時代」も参照 1411年にジョアン1世は王位継承者である長男のドゥアルテを共同統治者とする。1387年にカスティーリャ王国と最初の休戦協定が結んだ後、1396年から1397年にかけて起きた小競り合いを経て数度休戦協定が結ばれ、1411年にカスティーリャ王国との間に和約が成立したことで隣国からの脅威が取り払われた。 ブルゴーニュ王朝末期から続く経済危機、新興貴族の台頭という潜在的な危険に対して、ジョアン1世はヨーロッパへの金の供給元であるアフリカ大陸への進出という手段で解決を図った。当初はナスル朝が支配するグラナダが攻撃先に挙げられていたが、カスティーリャの感情を考慮して攻撃先はモロッコの港湾都市セウタに変更された。1415年にポルトガル軍はマリーン朝が支配するセウタを攻略し、ポルトガルは世界の一体化に行き着くヨーロッパ諸国の対外拡張政策の先陣を切る。カスティーリャなどの同時期の西欧諸国は内乱の火種を抱えていたが、アヴィス家の下で再編されたポルトガルは団結力を強め、他国に先んじて海外に進出することができたと考えられている。 しかし、アフリカ大陸の金はセウタを避けて他の地中海沿岸の都市に供給されるようになり、セウタの周辺では依然としてイスラーム勢力による抵抗が続いていた。セウタの処理を巡ってモロッコでの勢力の拡大を主張するドン・エンリケ(エンリケ航海王子)の派閥とセウタからの撤退を主張するドン・ペドロの党派に二分された。以後アヴィス朝のアフリカ政策はモロッコでの勢力の拡大を主張する派閥と西アフリカ沿岸部での貿易の強化と拠点の確立を主張する派閥によって左右されるようになる。 ジョアン1世の跡を継いだドゥアルテ1世は、1437年にタンジェに十字軍を派遣するが遠征は失敗し、従軍していたアヴィス騎士団長ドン・フェルナンドが捕虜とされ、フェルナンドはモロッコのフェズで生涯を終える。西アフリカ方面では、1434年にポルトガル船がボジャドール岬の回航に成功し、アフリカ探索の展望が開かれる。エンリケと彼の支持者はドゥアルテ1世にモロッコでの新たな軍事行動を行うよう主張したが、彼らの意見は採用されず、1438年にドゥアルテ1世は没する。 ドゥアルテ1世の死後、わずか6歳のアフォンソ5世が即位し、アフォンソ5世の母レオノールが摂政を務めた。ドン・エンリケ、ドン・アフォンソら主戦派から支持を得ていたレオノールに対して、ドン・ペドロ、ドン・ジョアンがブルジョアジー、下層民の支持を背景にして反乱を起こした。ペドロがアフォンソにブラガンサ公爵の称号といくつかの特権を与える事で両派の間に妥協が成立し、ペドロは摂政として王国を統治するが、カスティーリャの干渉によって国情はより混迷する。ペドロが摂政の職を解かれた後、アフォンソ5世は叔父のアフォンソの助言を受け入れ始め、先の内戦で敗れたエンリケ、アフォンソらの主戦派が力を取り戻す。追い込まれたペドロは反乱を起こすが、1449年にリスボン近郊のアルファロベイラで戦死する。 ドン・ペドロの摂政時代にペドロとエンリケの主導で西アフリカ探検が盛んに行われ、西アフリカで獲得した金と奴隷はポルトガルに利益をもたらした。しかし、カナリア諸島、西アフリカ沿岸部ではイタリア人やカスティーリャ人も交易活動に参加しており、カスティーリャ王国も西アフリカ沿岸部の征服と貿易に強い関心を示し始めた。1455年、1456年にアフォンソ5世は教皇庁からキリスト教の布教を大義名分とする大勅書を獲得し、すでに発見された、もしくは将来発見される非キリスト教地域の征服、貿易の独占権、聖職者の叙任権を認められる。ドン・ペドロの死後に西アフリカの探検事業は中断され、カスティーリャの王位により強い関心を持っていたアフォンソ5世は海外政策をドン・エンリケに委任する。モロッコでの拡張政策から西アフリカでの商業開発に転換していたと思われていたドン・エンリケは再び貴族寄りの政策をとり、モロッコでの征服事業を再開する。1458年にアフォンソ5世はモロッコに親征を行い、アルカセル・セゲールを征服する。1460年代に実施された2度のモロッコ遠征は失敗に終わり、1471年にタンジェの征服に成功するが、カスティーリャとの戦争のためにモロッコの征服事業は延長された。 1474年にカスティーリャ王エンリケ4世が没した後、カスティーリャの一部の貴族はアフォンソ5世に姪であるカスティーリャ王女フアナとの結婚を条件にカスティーリャ王位の継承を提案し、カスティーリャはアフォンソ5世を支持する派閥とフェルナンド・イサベル1世のカトリック両王を支持する派閥に分かれて争った。カスティーリャ内部の王位継承戦争と共に、西アフリカ沿岸部におけるポルトガルとカスティーリャの競争は激化するが、1479年に締結されたアルカソヴァス条約によって西アフリカ沿岸部の領有地域が取り決められた。カスティーリャはカナリア諸島と対岸の地域を領有し、ポルトガルはその他の大西洋の島々とヴェルデ岬以南の沿岸部を獲得する。アフォンソ5世の王子ジョアンはインドを西アフリカでの商業的展開の目的地に定め、1481年にポルトガル王位に就いた後には西アフリカでの探検事業を推進した。
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