アフリカのプレスター・ジョンとは? わかりやすく解説

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アフリカのプレスター・ジョン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 15:05 UTC 版)

プレスター・ジョン」の記事における「アフリカのプレスター・ジョン」の解説

15世紀から16世紀にかけては、アフリカキリスト教国であるエチオピア帝国プレスター・ジョンの国と見なされるうになる13世紀プレスター・ジョン情報伝えたプラノ・カルピニマルコ・ポーロ旅行記の中で「中央インド」に存在する黒人が住むキリスト教国「ハバシャ(アビシニア)」に言及しいずれの旅行記でもハバシャがプレスター・ジョンの国であることは否定されていたが、彼らの記録ヨーロッパ世界エチオピアへの関心引き付けたとも考えられる13世紀末にジェノヴァのウゴリーノとヴァディーノはジブラルタル海峡抜けアフリカ大陸南端経由してインドに向かう航海出たが行不明になり、彼らは予想外に敵対的なプレスター・ジョン捕らえられたのだという噂が広まったアクスム王国などのエチオピア国家イスラーム勢力との戦いでしばしば東ローマ帝国ポルトガル同盟結んでおり、ソロモン朝英語版)のダウィト1世英語版)(在位1382年 - 1411年もしくは1380年 - 1412年)が最も早くプレスター・ジョンと見なされたエチオピアの王だと考えられている。1321年布教のために西インド訪れたドミニコ会士のヨルダヌス(英語版)は報告書の中でプレスター・ジョンエチオピアにいると述べており、ヨルダヌスのこの記述エチオピアプレスター・ジョンを結びつけた最古の記録だと考えられている。1400年までにエチオピアプレスター・ジョンの国とする仮定多く人々受け入れられイギリスヘンリー4世エチオピアプレスター・ジョン宛てた手紙送付した1411年から1415年にかけてヴェネツィアのアルベルティヌス・デ・ヴィルガによって作成され世界地図には、エチオピアが「プレスター・ジョンの国」として記されていた。 大航海時代15世紀後半から16世紀前半にかけての時期には銀や香辛料などの獲得といった経済的目的のほか、プレスター・ジョン探索探検事業推進力となっていたと考えられている。ポルトガル王国エンリケ航海王子西アフリカの探検事業推進した理由金山発見のほかに、プレスター・ジョンの国の捜索目的となっていたと言われている。エンリケ航海王子は、プレスター・ジョンプレステ・ジョアン)の国の入り口となるエチオピア湾と思しき大きな湾の入り口発見した場合には付近住民インドプレスター・ジョン情報聞きまわるよう、船舶乗組員言いつけていた。 1486年にジョアン・アフォンソ・デ・アヴェイロに伴われポルトガル宮廷訪れたベニン王国使者は、ベニンから約1,400km離れた場所のオガネーという王の存在ポルトガル伝えたベニン使者述べたオガネーはヨルバ人オヨ王国の王だと考えられているが、オガネーは近隣首長に対して錫の十字架授与するなど教皇のように振る舞っていたと言われポルトガル王ジョアン2世はオガネーがプレスター・ジョン正体だと考えたまた、オガネーのほかに、はディオゴ・カンによって「発見」されたコンゴ王国君主莫大な富と強い権力有するモノモタパ王国の王も、一時期プレスター・ジョンと見なされていた。 ベニンからの使者報告受け取ったジョアン2世は、地中海方面西アフリカ方面プレスター・ジョンの国とインドへの到達目的とする探検隊派遣したトンブクトゥ、テクルル(英語版)など西アフリカ内陸部都市探索隊が派遣されバルトロメウ・ディアスには西アフリカ沿岸更なる南下命じられた。地中海方面にはペル・ダ・コヴィリャン(英語版)とアフォンソ・デ・パイヴァ(英語版)が派遣され2人イスラム教国マムルーク朝支配するエジプト向かった地中海渡った2人エジプト経てイエメンアデン到達して別れ、パイヴァはエチオピアに、コヴィリャンはインド亜大陸に向かう。パイヴァはエチオピア到着した後に病死し、コヴィリャンは西インド探索した後にカイロ戻ったカイロ戻ったコヴィリャンはジョアン2世派遣した使者会いインド探検報告書託してプレスター・ジョン捜索のためエチオピア向かった1493年にコヴィリャンはエチオピア到着し帝国から厚い待遇を受けるが帰国許されなかった。 エチオピア向かったコヴィリャンとポルトガル本国との連絡途絶えていたが、1520年エチオピアからの要請受けて派遣されドン・ロドリゴ団長とする使節団はこの地でコヴィリャンを発見しエチオピアプレスター・ジョンの国、当時エチオピア王ダウィト2世英語版)(レブナ・デンゲル)をプレスター・ジョンとしてポルトガル本国報告したドン・ロドリゴがコヴィリャンと再会した1520年以後ポルトガルエチオピアの王を「プレスター・ジョン」として認定した使節団随行した司祭フランシスコ・アルヴァレス(英語版)はエチオピア見聞録を「プレステ・ジョアンの国」の記録として記し1540年リスボンアルヴァレス見聞録刊行された。 1572年アブラハム・オルテリウスによって作成されアフリカ大陸地図には「月の山」などの架空土地多く描かれており、その中にはプレスター・ジョンの国も含まれていた。17世紀に入るとプレスター・ジョンの国は地図上から消滅するが、大航海時代の後も「プレスター・ジョンの国」はエチオピア文学的な呼称として使われ続けられている。 17世紀前半からチベット訪れたイエズス会の宣教師キリスト教チベット仏教の間に多く共通点見出し1692年チベット訪れたイエズス会士アブリル当時ダライ・ラマプレスター・ジョン例えた

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