アフリカの分割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 22:06 UTC 版)
1870年代の初め、ヨーロッパ各国が帝国主義の時代に入るころは、アフリカ大陸のうちヨーロッパ各国の支配下に組み込まれた地域は大陸全体のわずか10%程度であった。しかし、1880年代に入るとイギリス、フランス、ポルトガルに加えベルギーやドイツ、スペイン、イタリアなどとともに激しいアフリカ大陸の争奪競争が始まることになる。この大争奪戦の遠因は、隣国オランダの潤沢な植民地に領土的な野心を働かせ、コンゴの大地を狙ったベルギーの当時国王レオポルド2世によるものとされている。レオポルド2世は1870年代末にコンゴ国際協会を設立し、ヘンリー・スタンリーと共にコンゴの植民地化を進め始める。同時にコンゴ川近辺の各地の現地民と400を超える保護条約を締結、コンゴ国際協会の支配下に組み込んだ。これに対しポルトガルがコンゴ河口周辺の主権を宣言、イギリスがこれを承認した。これらの動きに刺激されたフランスはコンゴ川北方の現地民と保護条約を締結し、後のフランス領赤道アフリカの礎を築いた。一方時を同じくしてドイツも1884年にカメルーンの保護領化を宣言するなど、植民地化・アフリカの分割が加速度的に進んだ。1884年11月15日からはじまったベルリン会議にてこれらの無秩序なアフリカ争奪戦に一定のルールを課すことが決定され、以降アフリカ大陸において領土併合を行う場合の通告手法や利害調整の義務付けがなされた。 ベルリン会議を経た後になるとアフリカ分割は一層激化し、領土を巡った衝突もしばしば発生するようになる。フランスはサハラ砂漠から赤道アフリカを経てインド洋に抜ける横断的な領地獲得計画を推し進め、イギリスはナイジェリア、ウガンダ、ケニアを獲得しさらにカイロからケープに至る縦断的な流動線を確保しようとした。1898年にはファショダにおいてイギリスとフランスの勢力が衝突する事件が発生している(ファショダ事件)。イギリスはさらにボツワナやマラウイ、ジンバブエ、ザンビアなどを保護領化し支配下へと組み込んでいる。国内の統一のためアフリカ領土争奪戦に遅れて参戦したイタリアはソマリアやエリトリアなどを獲得するが、エチオピアの地域獲得を目論んだ戦争(1896年アドワの戦い)でエチオピア軍に敗北し、撤退している。これらの分割競争は1899年のオランダ系ボーア人の二つの共和国(トランスヴァール共和国、オレンジ自由国)をイギリスが併合するに至った第二次ボーア戦争をきっかけに一区切りがつけられることになった。 一連の分割競争の結果、領土的に広大な土地を獲得したのはフランスであったが、植民地から産出される鉱物などの質的な面で言えばイギリスに軍配が上げられる。また、植民地化を逃れたのはアメリカの解放奴隷が1847年に建国したリベリア共和国、峻険な高地に拠り強固な軍事力をもってイタリアを排除したエチオピアの2ヶ国のみであった。ヨーロッパ各国はこれらの植民地政策に対し、必要に応じて白人優越主義やダーウィニズムの論理を唱え、「自己発展の能力に欠けるアフリカの文明を開化させることは先進国の責務である」などといった自己中心的な正当性を主張した。アフリカはこれら植民地政策の手から完全に逃れるには、一部の国を除き、およそ半世紀の月日を待たねばならなかった。
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