西アフリカ・北アフリカとは? わかりやすく解説

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西アフリカ・北アフリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 23:56 UTC 版)

アフリカ」の記事における「西アフリカ・北アフリカ」の解説

西アフリカでは、紀元前900年さかのぼといわれる土偶製鉄技術をもったノク文化ナイジェリア北部生まれ土偶様式は、アフリカ中部から南部彫刻大きな影響あたえたナイジェリアでは、9-10世紀のやイボ文化英語版)やイボ=ウクゥ遺跡英語版)(イボ=ウクゥ(英語版))、10-13世紀ヨルバ文化英語版)(イフェ)、14-18世紀ベニン王国繁栄し優れた青銅製品知られている。また西アフリカでは、紀元前500年頃に金属加工技術到達したが、さらなる拡大紀元後になったエジプトヌビアエチオピアなど紀元前500年頃に製作され北部アフリカ青銅器西アフリカ発掘されている。これは当時からサハラ交易が行われていた事を示す。この交易背景繁栄したのがセネガル川上流ニジェール川上流4世紀さかのぼといわれるガーナ王国であり、11世紀後半まで岩塩と金中継貿易興隆誇ったその後交易路東漸伴ってマリ帝国ニジェール川上流ニアニ首都とし湾曲部トンブクトゥ版図含んで13-15世紀前半まで繁栄ソンガイ帝国15世紀後半から16世紀にかけて、ニジェール川湾曲部中心にナイジェリア北部ハウサ諸国従えマリ帝国屈服させてその版図大部分奪い、ほぼ西スーダン統一する広大な版図誇った一方、西スーダンこのような王国サハラ越え隊商による交易利害のあった北アフリカ西部マグリブにもベルベル人によって11世紀中葉-12世紀中葉ムラービト朝12世紀中葉-13世紀頃にムワッヒド朝、13-15世紀マリーン朝という強力なイスラム王朝建てられた。特にムラービト朝は、ガーナ王国滅ぼしたことで知られるソンガイ帝国は、1590年に、16世紀中葉モロッコ興った強力なサアド朝(サーディ朝)に攻め滅ぼされた。イフリーキヤ呼ばれたチュニジアも、909年アグラブ朝倒してファーティマ朝興ると、926年には西隣のイドリース朝滅ぼした969年に、エジプト東遷して、イフシード朝を滅ぼすと、北アフリカ統一完成し新首都カイロ遷都973年)して、カリフ称した西カリフ国呼ばれたイベリア半島後ウマイヤ朝比して中カリフ国呼ばれたエジプトではその後十字軍戦争活躍したサラディンによるアイユーブ朝そのもと実力をつけたバフリーヤなどのマムルークの力によって建国されマムルーク朝が続く。一方イフリーキヤでは、13世紀前半ムワッヒド朝から独立したハフス朝があり、これらの強力な王朝のもとで優れたイスラム建築多数建設され町並み世界遺産登録されているものも数多い。しかし、1517年マムルーク朝1574年ハフス朝オスマン帝国によって併合されるモロッコアルジェリアチュニジアなどの北アフリカ北西部位置するアラブ諸国マグリブ呼ばれマシュリク(日の昇るところ、東方に対して西方、すなわち、時と場合によってはリビアモーリタニア含められる。ただし、モーリタニア南部は、歴史的に西スーダンガーナ王国中心部で、マリ帝国版図属していたことから、通常西アフリカ区分される

※この「西アフリカ・北アフリカ」の解説は、「アフリカ」の解説の一部です。
「西アフリカ・北アフリカ」を含む「アフリカ」の記事については、「アフリカ」の概要を参照ください。

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