10-13世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 03:52 UTC 版)
10-13世紀にはスリップ(英語版)による装飾が出現・発展を見せた。イランが中心であったが、イスラーム世界の他地域でも同様であった。スリップにモチーフを刻む「ズグラッフィート」(掻落し)、スリップの一部を除去して胎土の色を出すシャンルヴェ、釉下でのスリップの上のスリップなど、さまざまな技法が用いられた。陶工たちはファイアンスを模倣しようとすることが多く、動物の頭を持つ水差しに見られるようにシャンルヴェやズグラッフィートの技法を有色の釉の流れの技法と組み合わせることも時折あった。しかしながら、イランのガルス地方で発見された陶器では、こうした技法で露出されたのは胎土ではなく、白のスリップの下にある黒の第2のスリップの層であった。 また11世紀には、珪土質の胎土の出現による新たな大変革も起こった。この胎土はファーティマ朝のエジプト(スカンロン)もしくはセルジューク朝のイランで発見、もしくは再発見されたものと思われる(古代エジプトやメソポタミアにも存在していた)。この胎土の使用は陶芸の大中心地のみでの、極めて贅沢な陶器のためだけに限られていた。カオリンがイスラーム世界では入手できなかったにもかかわらず中国の磁器を模倣しようとした努力の結果、この白く薄く非常に硬い素材に辿り着いたものと考えられる。 珪土質の胎土による陶器に用いられた装飾の技法は無数にある。一般に、胎土の色を活かすために透明な釉が用いられ、また材質の硬さのために轆轤ではなく型によって成形された。小さな穴(「蛍手」と呼ばれる装飾)や、刻んだ銘文などを持つこともあった。ほとんど目に見えない、「隠し装飾」が施されることもあった。 「ミーナーイー」(ペルシア語「七宝」)もしくは「ハフト・ランギ」(ペルシア語「七色」)では「小焚」による装飾技法が用いられる。これはセルジューク朝のイランに特有の産品であり、年代の分かる銘は1186-1242年のものがある。その生産の中心地はカーシャーンであったが、レイでも生産が行われていた可能性がある。複雑な工程のため極めて高価なものであった。珪土質の胎土はまず釉を施して高温で焼かれ、それから色が置かれる。基礎となる色は7つある。赤、白、黒、および金は安定しており、融点はおよそ1063℃である。緑、褐色、青は不安定で、このためにさまざまな色合いを持ち得る。2度目の焼きは600℃前後で、酸化環境(窯に酸素が入り込める)にて行われ、各作品は箱に入れて隔離しておかねばならない。この時に陶工は温度を調整することで色合いにニュアンスを与えることができる。ただし、高過ぎあるいは低過ぎる温度は窯の作品全てにとって致命的となってしまう恐れがある。 極度の洗練により、ラスター彩とハフト・ランギの技法が組み合わされるところにまで至り、この場合には少なくとも3度の焼成が必要となる。1度目は胎土と釉および場合によっては安定した色を焼き、2度目では環境(酸化/還元)を変えラスター彩を焼き、3度目に色を焼くのである。 ハフト・ランギはまた同時代の絵画から取ったものではないかと思われる精緻な装飾も特徴となっている(ただしこの仮説を裏付ける写本は全く存在していない)。非常に説明的な場合もある、文学を想起させうる具象的な場面が描かれており、たとえばメトロポリタン美術館蔵の「バフラーム・グール(英語版)とアーザーデの鉢」はフェルドウスィーの『シャー・ナーメ』もしくはニザーミーの『ハムサ』に言及しているものと思われる。 極めて希少であったハフト・ランギの生産はモンゴルの侵攻により突然途絶えてしまう。小焚の技法の方は、ラージュヴァルディーナとして継続されることとなる。 また、シリアでは新しい装飾の形が誕生した。透明な釉の下の着彩で、使用する色の数は少ない(コバルトブルー、黒、やや後には鉄の赤が用いられ、鉄の赤はしばしばカーキ色がかった緑に変色した)が、1度だけで焼くことができ、その分だけ失敗の可能性を減らすことができた。胎土は粘土質・珪土質の両方が用いられたが、特にセルジューク朝のアナトリアでは珪土質のものが用いられた。
※この「10-13世紀」の解説は、「イスラームの陶芸」の解説の一部です。
「10-13世紀」を含む「イスラームの陶芸」の記事については、「イスラームの陶芸」の概要を参照ください。
- 10-13世紀のページへのリンク