第2の哨戒 1945年5月 - 7月とは? わかりやすく解説

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第2の哨戒 1945年5月 - 7月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/14 04:57 UTC 版)

ブルヘッド (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1945年5月 - 7月」の解説

5月21日ブルヘッド2回目の哨戒タイランド湾およびジャワ海方面向かった6月18日には南緯0535東経10602分 / 南緯5.583度 東経106.033度 / -5.583; 106.033のスンダ海峡でNo.58 Sakura Maru不詳)を、翌6月19日には南緯0556東経10600分 / 南緯5.933度 東経106.000度 / -5.933; 106.000のスンダ海峡でNo.57 Tachibana Maru不詳)を撃沈した5月30日および6月25日にはスクーナーなどを撃沈した6月26日には2隻の掃海艇思しき艦船に対して魚雷発射したが、命中しなかった。ブルヘッド一連の攻撃で「小さな2隻の貨物船およびスクーナー駆潜艇などを攻撃して少なくとも4隻1,800トン戦果挙げた」と報告した7月2日ブルヘッド43日間行動終えてフリーマントル帰投艦長エドワード・R・ホルト・ジュニア(アナポリス1939年組)に代わった。

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第2の哨戒 1945年5月 - 7月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 21:17 UTC 版)

ティグロン (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1945年5月 - 7月」の解説

5月20日ティグロン2回目の哨戒日本近海向かった5月25日ティグロン孀婦岩鳥島発見また、不時着水した硫黄島第19戦飛行団パイロット救助した5月27日ティグロンラガー (船)(英語版)を発見し、5インチ砲と40ミリ機関砲攻撃したティグロン向き変えたとき、折りからの激しい波がティグロン襲い、3名の乗組員負傷させた。このアクシデントにもかかわらずティグロン炎上するラガー止め刺した戦闘後ティグロン指定され救助配備海域戻った5月28日ティグロンは自艦から500メートルの場所に不時着水した海軍爆撃機救助向かい、5名の搭乗員救助した次の2日間で、ティグロンはさらに23名もの遭難者救助した。その中には5月24日に、離水失敗して損傷したPBY カタリナからの救援要請受けて救助したものも含まれるティグロンはまず16名を救助し、他にも救命いかだがあることを知らされ、夜と9メートルを越す大波という悪条件にもかかわらず捜索続けた5月30日ティグロン友軍機の支援の下で捜索再開し執念実を結んで、ついに残る7名の陸軍パイロット乗る救命いかだ発見し激しい波で手間取ったものの、全員救助成功したティグロン次のようなメッセージ発した。 TIGRONE has saved the Air Force and is now returning to Iwo Jima with 28 rescued zoomies (ティグロン航空隊28名の救助とともに、今まさに硫黄島向かっている) ティグロンはこの時点で、潜水艦によるパイロット救助新記録打ち立てた6月1日ティグロン硫黄島寄港して救助者を上陸させ、6月3日には再び哨戒海域戻った任務レーダー不調に悩まされ続けていたが、それに加えて右舷側のシャフトから大きな異音生じるようになり、少なくとも攻撃支障ありと判断された。ティグロン本州南方海域移動し6月26日には不時着水した戦闘機パイロット救助。続く6分間で別のパイロット救助した2日後6月28日ティグロン針路グアム向けたティグロン最終的にこの哨戒合計30名もの人員救助した7月3日ティグロン44日間行動終えてアプラ港帰投潜水母艦プロテウス (USS Proteus, AS-19) による修理受けた艦長ヴィンセント・E・シューマッハアナポリス1938年組)に代わった。

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第2の哨戒 1945年5月 - 7月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:39 UTC 版)

ティランテ (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1945年5月 - 7月」の解説

5月20日、ティランテは2回目の哨戒で9隻の潜水艦から成るウルフパック「ストリーツ・スウィーパーズ Street's Sweepers」の司令艦として東シナ海および黄海方面向かった部隊は敵を探索したものの、この頃には敵艦の数は大きく減少していた。ティランテは6月10日によく慣れた狩り場である長崎沖で4隻の船から成る船団発見した。3隻の護衛艦回避し800トン貨物船撃沈したが、戦後の日本側の記録ではこれを確認できなかった。 翌6月11日未明、ティランテは大隅海峡西方沖で浮上充電中の伊36発見して魚雷発射したが、命中しなかった。日が高く上ってから、済州島成功させた電撃的な攻撃再度繰り返した。ティランテは、長崎から約11キロしか離れていない端島軍艦島)と野母半島間の海域侵入し端島南東部岸壁石炭積み込み作業中の貨物船白寿丸(白洋汽船、2,220トン)を発見した態勢はやや困難だったものの、ティランテは白寿丸に910メートルまで接近し1115分最初魚雷発射し命中白寿丸の乗組員船尾砲で反撃するように見えたので、続いて2本目魚雷発射。これは不発終わった間髪入れず3本目の魚雷発射し命中白寿丸は沈没した。ティランテは攻撃終えて端島から離れようとした。しかし、右側の潜舵の調子悪くなり、ティランテは意を決して浮上でこの海域脱出することとした。沿岸砲台からの砲撃がティランテの至近着弾したがティランテは速度上げこの間に潜舵の調子戻ったので、再び潜航し戦線離脱した一連の攻撃様子は、映像として残された。 ティランテの端島攻撃一つ伝説生んだ。「米潜水艦端島本物軍艦間違えて攻撃した」というものである西側外洋側)から攻撃したなら、確かに軍艦間違えて攻撃したと言えなくもないが、ティランテは岸壁のある東側入り白昼堂々攻撃し確実に白寿丸を仕留めた坂本勲はその著作軍艦島攻撃さる』において、この伝説は「軍部アメリカ間抜けさ強調するために、世論誘導行って作ったものではないか」と考察している。また攻撃時、島民爆発音恐怖不安に包まれた。 ティランテは哨戒再開し6月24日には黄海で第284 Antung Maru不詳)を撃沈する7月4日には青島沖で警備船 Koshe Maru不詳) 、Mashuye Maru不詳) を撃沈7月8日には北緯38度48東経12125分 / 北緯38.800度 東経121.417度 / 38.800; 121.417の大連沖で貨客船済通丸(大連汽船、1,037トン)を撃沈した7月19日、ティランテは57日間行動終えてグアムアプラ港に帰投した。 8月12日、ティランテは3回目の哨戒出撃したが、3日後の終戦に伴い哨戒切り上げられ、8月23日ミッドウェー島帰投した。

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