第2の哨戒 1945年5月 - 7月
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「ブルヘッド (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1945年5月 - 7月」の解説
5月21日、ブルヘッドは2回目の哨戒でタイランド湾およびジャワ海方面に向かった。6月18日には南緯05度35分 東経106度02分 / 南緯5.583度 東経106.033度 / -5.583; 106.033のスンダ海峡でNo.58 Sakura Maru(不詳)を、翌6月19日には南緯05度56分 東経106度00分 / 南緯5.933度 東経106.000度 / -5.933; 106.000のスンダ海峡でNo.57 Tachibana Maru(不詳)を撃沈した。5月30日および6月25日にはスクーナーなどを撃沈した。6月26日には2隻の掃海艇と思しき艦船に対して魚雷を発射したが、命中しなかった。ブルヘッドは一連の攻撃で「小さな2隻の貨物船およびスクーナー、駆潜艇などを攻撃して、少なくとも4隻1,800トンの戦果を挙げた」と報告した。7月2日、ブルヘッドは43日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がエドワード・R・ホルト・ジュニア(アナポリス1939年組)に代わった。
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第2の哨戒 1945年5月 - 7月
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「ティグロン (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1945年5月 - 7月」の解説
5月20日、ティグロンは2回目の哨戒で日本近海に向かった。5月25日、ティグロンは孀婦岩と鳥島を発見。また、不時着水した硫黄島の第19戦闘飛行団のパイロットを救助した。5月27日、ティグロンはラガー (船)(英語版)を発見し、5インチ砲と40ミリ機関砲で攻撃した。ティグロンが向きを変えたとき、折りからの激しい波がティグロンを襲い、3名の乗組員を負傷させた。このアクシデントにもかかわらず、ティグロンは炎上するラガーに止めを刺した。戦闘後、ティグロンは指定された救助配備の海域に戻った。 5月28日、ティグロンは自艦から500メートルの場所に不時着水した海軍爆撃機の救助に向かい、5名の搭乗員を救助した。次の2日間で、ティグロンはさらに23名もの遭難者を救助した。その中には、5月24日に、離水に失敗して損傷したPBY カタリナからの救援要請を受けて救助したものも含まれる。ティグロンはまず16名を救助し、他にも救命いかだがあることを知らされ、夜と9メートルを越す大波という悪条件にもかかわらず捜索を続けた。5月30日、ティグロンは友軍機の支援の下で捜索を再開し、執念が実を結んで、ついに残る7名の陸軍パイロットが乗る救命いかだを発見し、激しい波で手間取ったものの、全員の救助に成功した。ティグロンは次のようなメッセージを発した。 TIGRONE has saved the Air Force and is now returning to Iwo Jima with 28 rescued zoomies (ティグロンは航空隊と28名の救助者とともに、今まさに硫黄島に向かっている) ティグロンはこの時点で、潜水艦によるパイロット救助の新記録を打ち立てた。 6月1日、ティグロンは硫黄島に寄港して救助者を上陸させ、6月3日には再び哨戒海域に戻った。任務は霧とレーダーの不調に悩まされ続けていたが、それに加えて右舷側のシャフトから大きな異音が生じるようになり、少なくとも攻撃に支障ありと判断された。ティグロンは本州南方海域に移動し、6月26日には不時着水した戦闘機のパイロットを救助。続く6分間で別のパイロットも救助した。2日後の6月28日、ティグロンは針路をグアムに向けた。ティグロンは最終的にこの哨戒で合計30名もの人員を救助した。7月3日、ティグロンは44日間の行動を終えてアプラ港に帰投。潜水母艦プロテウス (USS Proteus, AS-19) による修理を受けた。艦長がヴィンセント・E・シューマッハ(アナポリス1938年組)に代わった。
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第2の哨戒 1945年5月 - 7月
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「ティランテ (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1945年5月 - 7月」の解説
5月20日、ティランテは2回目の哨戒で9隻の潜水艦から成るウルフパック「ストリーツ・スウィーパーズ Street's Sweepers」の司令艦として東シナ海および黄海方面に向かった。部隊は敵を探索したものの、この頃には敵艦の数は大きく減少していた。ティランテは6月10日によく慣れた狩り場である長崎沖で4隻の船から成る船団を発見した。3隻の護衛艦を回避し、800トンの貨物船を撃沈したが、戦後の日本側の記録ではこれを確認できなかった。 翌6月11日未明、ティランテは大隅海峡西方沖で浮上充電中の伊36を発見して魚雷を発射したが、命中しなかった。日が高く上ってから、済州島で成功させた電撃的な攻撃を再度繰り返した。ティランテは、長崎から約11キロしか離れていない端島(軍艦島)と野母半島間の海域に侵入し、端島南東部の岸壁で石炭の積み込み作業中の貨物船白寿丸(白洋汽船、2,220トン)を発見した。態勢はやや困難だったものの、ティランテは白寿丸に910メートルまで接近し、11時15分に最初の魚雷を発射し命中、白寿丸の乗組員が船尾砲で反撃するように見えたので、続いて2本目の魚雷を発射。これは不発に終わった。間髪入れず3本目の魚雷を発射し命中、白寿丸は沈没した。ティランテは攻撃を終えて端島から離れようとした。しかし、右側の潜舵の調子が悪くなり、ティランテは意を決して浮上でこの海域を脱出することとした。沿岸砲台からの砲撃がティランテの至近に着弾したがティランテは速度を上げ、この間に潜舵の調子が戻ったので、再び潜航して戦線を離脱した。一連の攻撃の様子は、映像として残された。 ティランテの端島攻撃は一つの伝説を生んだ。「米潜水艦が端島を本物の軍艦と間違えて攻撃した」というものである。西側(外洋側)から攻撃したなら、確かに「軍艦と間違えて攻撃した」と言えなくもないが、ティランテは岸壁のある東側に入り白昼堂々と攻撃し、確実に白寿丸を仕留めた。坂本勲はその著作『軍艦島攻撃さる』において、この伝説は「軍部がアメリカの間抜けさを強調するために、世論誘導を行って作ったものではないか」と考察している。また攻撃時、島民は爆発音で恐怖と不安に包まれた。 ティランテは哨戒を再開し、6月24日には黄海で第284 Antung Maru (不詳)を撃沈する。7月4日には青島沖で警備船 Koshe Maru(不詳) 、Mashuye Maru(不詳) を撃沈。7月8日には北緯38度48分 東経121度25分 / 北緯38.800度 東経121.417度 / 38.800; 121.417の大連沖で貨客船済通丸(大連汽船、1,037トン)を撃沈した。7月19日、ティランテは57日間の行動を終えてグアムアプラ港に帰投した。 8月12日、ティランテは3回目の哨戒で出撃したが、3日後の終戦に伴い哨戒は切り上げられ、8月23日にミッドウェー島に帰投した。
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