第2の哨戒 1945年3月 - 5月
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「スレッドフィン (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1945年3月 - 5月」の解説
3月14日、スレッドフィンは2回目の哨戒で南西諸島方面に向かった。途中、スレッドフィンはシードッグ (USS Sea Dog, SS-401) 、トリガー (USS Trigger, SS-237) とウルフパックを構成し豊後水道に急行するよう命じられた。3月28日、スレッドフィンは2隻の海防艦を発見し、魚雷6本を発射。うち1本が命中したように思えたが、反撃を受け戦果を判定することは出来なかった。その夜、スレッドフィンは2隻のトロール船と4隻のラガー (船)(英語版)と交戦し、炎上させるなど混乱を与えたが、効果は小さいと判定された。3月31日、スレッドフィンのいたウルフパックは、トリガーが行方不明になったことにより、そのトリガーに別任務を付するため解散した。スレッドフィンは、シルバーサイズ (USS Silversides, SS-236) 、ハックルバック (USS Hackleback, SS-295) と新しいウルフパックを組んで、引き続き豊後水道に居座りつつ新任務に就いた。この任務では、日本海軍の艦隊の動向に注意し、攻撃は第二の行動として報告を最も重要な任務とすることと指令されていた。4月6日19時44分、スレッドフィンは北緯32度42分 東経131度59分 / 北緯32.700度 東経131.983度 / 32.700; 131.983の地点でSJレーダーで目標を探知した。この目標が何であるかこの時点では不明だったが、ともかく浮上したまま追跡した。目標に約4海里まで接近した後、目標が戦艦大和を中心とする伊藤整一中将の第二艦隊であるらしいこと、その速力が22ノットであることなどを司令部に報告した。大和の方でもスレッドフィンが浮上して追跡しているのは確認していたが、発砲はしてこなかった。22時を回って大和以下の艦隊は南西方に進路を変え、スレッドフィンは一気に振り切られてしまった。その後の哨戒では主に人命救助が主要任務となり、哨戒期間の終了間際にP-51のパイロットを救助した。このパイロットは救助当時溺れており、大量の海水を飲み込んでいたが、人工呼吸により一命を取りとめた。4月30日にミッドウェー島に寄港。5月4日、スレッドフィンは51日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 なお、The Official Chronology of the U.S. Navy in World War IIなどアメリカ側の記録では、スレッドフィンはこの哨戒で3月28日に海防艦御蔵を撃沈したとしており、日本側資料の中にもこれを引用したものがある。御蔵はこの日、僚艦とともにトリガーを撃沈した後、第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の爆撃を受けた。16時45分に御蔵の僚艦である第33号海防艦が北緯31度45分 東経131度45分 / 北緯31.750度 東経131.750度 / 31.750; 131.750の地点で敵機を発見し報告しているが、この地点はアメリカ側の記録でスレッドフィンが御蔵を撃沈したとしている地点、また "The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II" に記載されている第33号海防艦の沈没地点とほぼ同一である。他に、Roscoe ではスレッドフィンの単独撃沈となっており、第33号海防艦はホーネット (USS Hornet, CV-12) 機による撃沈となっている。木俣『敵潜水艦攻撃』および『日本海防艦戦史』ではスレッドフィンによる撃沈とはしていない一方で、『海防艦戦記』の御蔵の項では、第65号海防艦航海長の目撃談として「敵機動部隊の飛行機と潜水艦の攻撃を受け、1200頃御蔵は敵潜水艦の雷撃を受け沈没、生存者なしという」としている。御蔵を真に撃沈したのがスレッドフィンなのか第58任務部隊機なのか、あるいは共同で撃沈したのかは結論としては不明であるが、前述のように、少なくともRoscoe では共同戦果としては認定されていない。
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