第2の哨戒 1945年4月 - 5月・ラガートの喪失
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「ラガート (潜水艦)」の記事における「第2の哨戒 1945年4月 - 5月・ラガートの喪失」の解説
4月12日、ラガートは2回目の哨戒で南シナ海およびタイランド湾方面に向かった。4月27日、ラガートはバヤ (USS Baya, SS-318) と合流し、ともにタイランド湾外側の水域に急いだ。5月2日、バヤはPB4Y-2 プライバティアからの報告でラガートとカイマン (USS Caiman, SS-323) の接近を知った。20時55分にラガートはバヤと交信。その少し後の21時55分、バヤのレーダーがおよそ14キロ先にある4つの目標を探知した。22時10分にバヤから目標に関する報告を受けたラガートは、バヤとともに9ノットの速度で追跡。次第に、目標は1隻の大型船、1隻の艦型不詳の艦船、2隻の護衛艦だろうと判断された。バヤは12ノットの速力で船団の右側から追跡し、ラガートは反対側を進んだ。レーダーには新たな2つの目標が探知され、それは反対側を行くラガートと、3つのマストを持ったジャンクと判断された。追跡中、バヤは船団の中に白鷹型敷設艦がいることを確認。しかし、あと一歩と言うところでラガートが砲撃を受け撃退され、バヤも同様に追い払われた。 5月3日朝、ラガートとバヤは会合し、船団の襲撃プランを練った。その結果、「ラガートが14時から潜航して船団に接近し、バヤは24キロメートルの距離を保って船団を追跡する。首尾よくいかなければ、21時30分までに攻撃する」という戦法が採用された。そして、同日の15時にバヤはラガートに接触報告を送信した。しかし、もうすぐ5月4日になる時までラガートが攻撃しないように見えたので、バヤは単艦で船団を攻撃することとした。しかし、この攻撃も護衛艦に阻止されて成功しなかった。しかも、その頃になるとラガートからの音信はぱったりと止まっていた。5月3日朝に会合したのを最後に、ラガートは行方不明となった。 アメリカ側の調査により日本側の記録から、5月3日から4日にかけて、船団の2隻の護衛艦のうち1隻だったであろう敷設艦初鷹が北緯07度55分 東経102度00分 / 北緯7.917度 東経102.000度 / 7.917; 102.000の地点で行った対潜攻撃がラガートを仕留めた攻撃であろうと考えられた。ラガートは1945年8月10日に喪失が宣告され、9月1日に除籍された。 ラガートは第二次世界大戦の戦功で1個の従軍星章を受章した。
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