第2の哨戒 1944年8月 - 9月
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 19:13 UTC 版)
「シーライオン (SS-315)」の記事における「第2の哨戒 1944年8月 - 9月」の解説
8月17日、シーライオンは2回目の哨戒でグロウラー (USS Growler, SS-215)、パンパニト (USS Pampanito, SS-383) とウルフパックを構成しルソン海峡方面に向かった。8月23日にサイパン島近海を通過し、8月30日にバシー海峡に到着。翌31日2時ごろ、パンパニトがミ15船団の接近を探知。シーライオンは、僚艦2隻のほかクイーンフィッシュ (USS Queenfish, SS-393)、バーブ (USS Barb, SS-220)、タニー (USS Tunny, SS-282) のウルフパック「エドのインク消し Ed's Eradicators」とともに浮上しながら船団に接近していった。シーライオンは15ノットの速力で走り回り、4時32分にタンカーなどの目標に向けて艦首と艦尾の発射管から魚雷を10本発射。発射した魚雷のうち、タンカーに向けたものは命中したと考えられ、目標の方角から閃光が上がるのを確認。レーダーでもこの目標は2つに割れて消え去ったことが確認された。船団の他の船舶がシーライオンを撃ってきたので、シーライオンは射程外に退避したのち、5時58分に潜航。ミ15船団の予想進路前方に回りこんだ。 6時15分、シーライオンは左舷方向にミ15船団を再び発見し接近していった。船団は、駆逐艦と判断された敷設艦白鷹を先頭に立てて航行しており、8ノットから10ノットの速度と判断した。7時20分、シーライオンは白鷹に向けて魚雷を3本発射。次いで中型輸送船に向けて3本発射した。7時22分から3つの爆発があり、観測すると白鷹は煙を上げながら停止状態となり、上空に哨戒機が旋回しているのが見えた。そのうち、哨戒機が対潜爆弾を投下してきたので、シーライオンは針路を南に向けて退避行動に移った。7時27分、船体が水圧で破壊される音を聴取し、これは目標の沈没を示すものと考えられた。シーライオンは他の護衛艦から25発の爆雷を投下されたが被害はなかった。夕方、シーライオンは一条の煙を発見し、商船と思って接近すると、相手は対潜艦艇だと分かった。シーライオンは魚雷を3本発射して対抗したが、命中はしなかった。しかし、2発の爆雷を投下された以外は、大した反撃は受けなかった。シーライオンは一連の攻撃を終えて残り魚雷が5本になったので、魚雷と燃料の補給のためウルフパックを抜けて、9月5日にサイパン島に一時帰投。シーライオンは9月7日に再出撃し、9月11日夜にグロウラー、パンパニトと再会した。 9月12日、海南島楡林東方500キロの海域でグロウラーがヒ72船団を発見。1時55分に先制攻撃で船団旗艦の平戸を撃沈し、船団は回避運動に入った。シーライオンとパンパニトは遅れて戦闘に参加し、船団前方に出て待ち伏せた。5時27分、シーライオンは南海丸(大阪商船、8,416トン)に対して魚雷を3本発射。そのうちの2本が南海丸の右舷に命中し、南海丸は炎上した。シーライオンは間髪入れず第二撃で楽洋丸(南洋海運、9,418トン)に対して魚雷を発射。魚雷は命中し、楽洋丸は航行を停止した。南海丸は8時45分に沈没し、楽洋丸も18時30分になって沈没した。この間、グロウラーが駆逐艦敷波を、夜に入ってからパンパニトが勝鬨丸(拿捕船、元アメリカ船プレジデント・ハリソン/日本郵船委託、10,509トン)とタンカー瑞鳳丸(飯野海運、5,135トン)をそれぞれ撃沈、ヒ72船団は三亜へと逃げ去った。シーライオンはなおもヒ72船団に食いついたものの、さらなる攻撃は出来なかった。 9月15日朝、ウルフパックは新たな哨戒海域に向かっていた。午後、パンパニトからシーライオン、および他の潜水艦に無電が飛んだ。パンパニトは3日前の攻撃海域にいたところ、海上にいかだにしがみついて救助を求める捕虜を発見した。シーライオンが撃沈した楽洋丸は、いわゆるヘルシップと渾名された連合軍捕虜輸送船の1隻で、一連の攻撃で1,300名。を超える捕虜が死亡するか漂流する結果となった。この手の地獄船情報は、通常なら連合軍が張り巡らした諜報網で事前に察知するはずであったが、この時に限って諜報がなかった。シーライオンはパンパニト、バーブ、クイーンフィッシュとともにこれらの捕虜を救助。20時45分までに、シーライオンは54名のイギリスおよびオーストラリア兵の捕虜を救助し、パンパニトが73名、バーブとクイーンフィッシュが32名を救助した。救助した捕虜は例外なく油まみれであり、マラリア、ペラグラ、脚気のいずれかに冒されていた。シーライオンが9月17日にバリンタン海峡に到達する前に3名が死亡。翌18日、シーライオンは駆逐艦ケース (USS Case, DD-370) と会合して、ケースから医師や薬剤師がシーライオンに移乗して治療に当たった。しかし、9月19日には看護の甲斐なく4人目の死亡者が出た。9月20日、シーライオンはサイパン島タナパグ港に入港し、生存の捕虜50名は現地の陸軍病院に収容されていった。9月30日、シーライオンは44日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 なお、シーライオンが白鷹を撃沈した戦闘については、駒宮真七郎『戦時輸送船団史』236ページには「〇七一五頃、突然一隻が浮上し、白鷹に対し砲戦を開始した。これに対し白鷹も負けじと砲撃を展開したが、〇七三〇不運にも命中弾を受け、一一一五沈没するに至った」とある。しかし、シーライオンの戦時日誌を見る限りでは、この時間帯にシーライオンが浮上して戦闘を行った記述はない。シーライオンは白鷹を駆逐艦、それも照月型駆逐艦と判断していた。
※この「第2の哨戒 1944年8月 - 9月」の解説は、「シーライオン (SS-315)」の解説の一部です。
「第2の哨戒 1944年8月 - 9月」を含む「シーライオン (SS-315)」の記事については、「シーライオン (SS-315)」の概要を参照ください。
- 第2の哨戒 1944年8月 - 9月のページへのリンク