第二次世界大戦後 - 東西ベルリン時代とは? わかりやすく解説

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第二次世界大戦後 - 東西ベルリン時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:35 UTC 版)

ベルリンSバーン」の記事における「第二次世界大戦後 - 東西ベルリン時代」の解説

1945年5月8日ドイツ降伏しドイツとその首都ベルリンは、それぞれ戦勝4か国(米国英国仏国ソ連)に分割統治されることになった結果2つ政治体制生まれ1949年5月には米・英・仏の統治地域ドイツ連邦共和国西ドイツ)、同年10月にはソ連統治地域ドイツ民主共和国東ドイツ)としてバラバラ独立鉄道西側ドイツ連邦鉄道 (DB) となり、東側引き続きドイツ帝国鉄道 (DR) の名称が使用され続けた東西ドイツ間の行き来大きく制限されることになる。 しかし、ベルリンに関して米・英・仏の統治地域西ベルリンソ連統治地域東ベルリンになったものの、名目上は4か国による統治のままであったまた、ベルリン東ドイツ中にあるため同じ政治体制両者一体化したが、東西ベルリン(および西ベルリン東ドイツ)の間の往来も場所は限られているが自由だった鉄道運営一元化観点から、東西ベルリンともにSバーン長距離線が東ドイツ国営鉄道DR)、Uバーンベルリン交通公社BVG)による運営となった。しかし後者東西ベルリン異な政治主体となった時に分裂している(以下、単にBVG表記した時は西側のそれを指す)。 戦災ならびに敗戦後ソ連軍による施設の接収もありズタズタになったSバーンは、1947年ごろには戦前規模取り戻している。またマールスドルフ(ドイツ語版英語版) - シュトラウスベルク、グリュナウ - ケーニヒス・ヴスターハウゼンなど、おもに東側路線延長が行なわれている。一方で長距離線は戦前ターミナルの殆どが西ベルリンになったため、復興最低限区間に留まった。 このように東西問わずベルリン市民の足としてSバーン復興した。しかし、東西ベルリン間の通行自由なことが、東ドイツ国民東ベルリン市民含む)の西ドイツへの逃亡を、また逆に西側諸国スパイ東ドイツ入国を許すことになっていた。これは東ドイツにとって死活問題であった。 それらを阻止するために、東ドイツの手建設されたのがベルリンの壁である。1961年8月13日未明東西ベルリン(および西ベルリン東ドイツ)間の通行は、突如として全面的に遮断された。Sバーン分断され西側区間東側区間完結するうになる。この時に、リヒターフェルデ - テルトウ、シュパンダウ以西ヴァンゼー以南など東西を跨ぐ末端区間廃止になっている。 しかし、壁建設後Sバーン全てDR経営であることに変わりはなかった。そのため、西側では「Sバーン運賃鉄条網(壁)に払われる」「ウルブリヒトには1ペニヒも払うな」としてボイコット運動が行なわれた。また並行してバスUバーンなども整備されたため、利用客減少一途を辿る赤字額は年々膨ら一方となり、保守も満足に行なえない状態になった。それでもDRによって細々運行続けられていたが、ついには1980年9月待遇改善求め西ベルリン居住従業員によるストライキ発生これを機に大多数従業員解雇され環状線など多く路線休止廃止となった。そして、壁建設前70万人いた利用者1983年には1万人を割ってしまった。 ここに至り西側当局市内約150kmにおよぶSバーン施設廃墟となることを放置できず、東側との交渉入り1984年1月から西ベルリン側のSバーンについては、西ドイツ政府補助のもとにBVG列車運行引き継ぐことになった長距離線はDR運営のまま残った。なお、当時西ベルリン動物園駅西ドイツのハンブルク・ハノーファー・ニュルンベルクを結ぶ回廊列車運行されていたが、列車の運行フリードリヒ通り駅起点としていた。 当初市街線・ヴェツラー線(フリードリヒ通り - ヴェストクロイツ - ヴァンゼー)、ドレスデン線(アンハルト駅 - リヒテンラーデ)で営業開始以降ヴァンゼー線(アンハルト駅 - ヴァンゼー)、南北地下線北部線(アンハルト駅 - ゲズントブルンネン - フローナウ)が復活した。これが西ベルリンにおけるSバーン最終形となる。車両の面では、480形電車が数編成投入された。 一方東側では、ベルリンの壁建設期に外環状線一部区間電化してSバーン乗りいれた。その後も、ヴリーツェン線の電化など運転区間拡大実施された。これは、ベルリン地下鉄網が連合国取り決めにより一部区間U2東側区間および全線東側であったU5)を除き西側管轄で、東側Sバーン主力交通機関であったためである。しかし車両の面では前述ボイコット運動による西側路線需要減少およびソ連からの接収車両返還による余剰車両発生新形式ET170の開発失敗もあって、冷戦末期485形登場まで全く置き換えが進まなかった。そのほか背景電車生産能力不足もあり、Uバーンにおいても壁崩壊直前U5東側管轄延伸開業時西ベルリンBVGより中古車100両以上の譲渡受けている。

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