第二次世界大戦後 - 東西ベルリン時代
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「ベルリンSバーン」の記事における「第二次世界大戦後 - 東西ベルリン時代」の解説
1945年5月8日、ドイツが降伏し、ドイツとその首都ベルリンは、それぞれ戦勝4か国(米国、英国、仏国、ソ連)に分割統治されることになった結果、2つの政治体制が生まれ、1949年5月には米・英・仏の統治地域がドイツ連邦共和国(西ドイツ)、同年10月にはソ連の統治地域がドイツ民主共和国(東ドイツ)としてバラバラに独立。鉄道も西側はドイツ連邦鉄道 (DB) となり、東側は引き続きドイツ帝国鉄道 (DR) の名称が使用され続けた。東西ドイツ間の行き来は大きく制限されることになる。 しかし、ベルリンに関しては米・英・仏の統治地域が西ベルリン、ソ連の統治地域が東ベルリンになったものの、名目上は4か国による統治のままであった。また、ベルリンは東ドイツの中にあるため同じ政治体制の両者は一体化したが、東西ベルリン(および西ベルリンと東ドイツ)の間の往来も場所は限られているが自由だった。鉄道は運営一元化の観点から、東西ベルリンともにSバーン・長距離線が東ドイツ国営鉄道(DR)、Uバーンがベルリン交通公社(BVG)による運営となった。しかし後者は東西ベルリンが異なる政治主体となった時に分裂している(以下、単にBVGと表記した時は西側のそれを指す)。 戦災、ならびに敗戦後ソ連軍による施設の接収もありズタズタになったSバーンは、1947年ごろには戦前の規模を取り戻している。またマールスドルフ(ドイツ語版、英語版) - シュトラウスベルク、グリュナウ - ケーニヒス・ヴスターハウゼンなど、おもに東側で路線の延長が行なわれている。一方で、長距離線は戦前のターミナルの殆どが西ベルリン側になったため、復興は最低限の区間に留まった。 このように東西問わずベルリン市民の足としてSバーンは復興した。しかし、東西ベルリン間の通行が自由なことが、東ドイツ国民(東ベルリン市民含む)の西ドイツへの逃亡を、また逆に西側諸国のスパイの東ドイツ入国を許すことになっていた。これは東ドイツにとって死活問題であった。 それらを阻止するために、東ドイツの手で建設されたのがベルリンの壁である。1961年8月13日未明、東西ベルリン(および西ベルリンと東ドイツ)間の通行は、突如として全面的に遮断された。Sバーンも分断され、西側区間と東側区間で完結するようになる。この時に、リヒターフェルデ - テルトウ、シュパンダウ以西、ヴァンゼー以南など東西を跨ぐ末端区間は廃止になっている。 しかし、壁建設後もSバーンは全てがDRの経営であることに変わりはなかった。そのため、西側では「Sバーンの運賃は鉄条網(壁)に払われる」「ウルブリヒトには1ペニヒも払うな」としてボイコット運動が行なわれた。また並行してバスやUバーンなども整備されたため、利用客は減少の一途を辿る。赤字額は年々膨らむ一方となり、保守も満足に行なえない状態になった。それでもDRによって細々と運行が続けられていたが、ついには1980年9月に待遇改善を求める西ベルリン居住の従業員によるストライキが発生。これを機に大多数の従業員が解雇され、環状線など多くの路線が休止(廃止)となった。そして、壁建設前は70万人いた利用者は1983年には1万人を割ってしまった。 ここに至り西側当局も市内約150kmにおよぶSバーン施設が廃墟となることを放置できず、東側との交渉に入り、1984年1月から西ベルリン側のSバーンについては、西ドイツ政府の補助のもとにBVGが列車運行を引き継ぐことになった。長距離線はDRの運営のまま残った。なお、当時西ベルリンの動物園駅と西ドイツのハンブルク・ハノーファー・ニュルンベルクを結ぶ回廊列車が運行されていたが、列車の運行はフリードリヒ通り駅を起点としていた。 当初、市街線・ヴェツラー線(フリードリヒ通り - ヴェストクロイツ - ヴァンゼー)、ドレスデン線(アンハルト駅 - リヒテンラーデ)で営業を開始、以降、ヴァンゼー線(アンハルト駅 - ヴァンゼー)、南北地下線・北部線(アンハルト駅 - ゲズントブルンネン - フローナウ)が復活した。これが西ベルリンにおけるSバーンの最終形となる。車両の面では、480形電車が数編成投入された。 一方東側では、ベルリンの壁建設を期に外環状線の一部区間を電化してSバーンが乗りいれた。その後も、ヴリーツェン線の電化など運転区間の拡大が実施された。これは、ベルリンの地下鉄網が連合国の取り決めにより一部区間(U2の東側区間および全線が東側であったU5)を除き西側管轄で、東側はSバーンが主力交通機関であったためである。しかし車両の面では前述のボイコット運動による西側路線の需要減少およびソ連からの接収車両の返還による余剰車両の発生、新形式ET170の開発失敗もあって、冷戦末期の485形登場まで全く置き換えが進まなかった。そのほかの背景に電車の生産能力不足もあり、Uバーンにおいても壁崩壊直前のU5(東側管轄)延伸開業時、西ベルリンBVGより中古車100両以上の譲渡を受けている。
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