福島時代
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2015年は選手としては10試合の出場に留まったが、打率は5割を超えた。監督としては前期・最下位に沈むも、後期は新規参入1年目での地区半期優勝を果たした(リーグでは群馬ダイヤモンドペガサスに次いで2例目)。新潟との地区チャンピオンシップシリーズでは1勝2敗でリーグチャンピオンシップシリーズ進出はならなかった。11月1日、福島の球団代表に就任した。2016年4月のインタビューで「俺以外のヤツには、みんなNPBを目指せ、と言ってある。俺はもうNPBはない。俺は今、福島県のために野球をやっている」と語っており、現役選手としてのNPB復帰の可能性を否定した。 2016年も選手兼任監督に留任したが、選手としての出場は3試合にとどまり、4打数無安打3四球1打点の成績だった。監督としては前後期ともに2位ながら、年間勝率2位となったことから、前後期を連覇した群馬と対戦する形で、2年連続して地区チャンピオンシップへの出場を果たした。地区チャンピオンシップは初戦で敗退し(福島は3勝0敗が勝ち上がり条件)、前年に続いてリーグチャンピオンシップに駒を進めることができなかった。一方、東北放送の野球解説者も務めた。 2017年は開幕直後の4月10日に記者会見を開き、今シーズン限りで現役を引退することを発表した。9月10日の対武蔵ヒートベアーズ戦(郡山総合運動場開成山野球場、後期最終戦)が引退試合とされ、1番・指名打者で先発出場した岩村は、中西太も見守る中、4打数2安打を記録。試合は引き分けだったが、3年連続での地区チャンピオンシップ出場を決めた。試合後のセレモニーではゆかりある関係者からのビデオメッセージの上映後、「175センチという体で、怪我とよく向き合いながら21年よくやったと思う。監督が選手最後の試合というプレッシャーの掛かる試合で、プレーオフを決めた選手全員を誇りに思います。そして、それを後押ししたのがファンの皆さん。ありがとうございます」と挨拶した。地区チャンピオンシップについては「さすがにもういいでしょ」と出場しない意向を示した。前年に続いて前後期優勝の群馬との対戦となった地区チャンピオンシップは、初戦に勝利したが第2戦に0-1で惜敗し、今回もリーグチャンピオンシップへの出場はならなかった。 2018年8月4日、かつて所属したタンパベイ・レイズの本拠地で試合前の始球式を務めた(捕手役は2008年のワールドシリーズ当時遊撃手だったジェイソン・バートレット)。このシーズン、福島は前期・後期ともに2位(前期は優勝マジックを点灯させたものの、群馬に逆転を許した)となり、4年連続で地区チャンピオンシップに進んだが、今回も群馬の前に1引き分けで敗退となった。 福島はシーズン終了後に経営難が報じられ、11月21日に記者会見を開いて自らが代表となる新運営会社の設立と、チーム名の「福島レッドホープス」への変更を発表した。 2019年3月22日には、オークランド・アスレチックスのOBを代表して、MLB開幕カード第2戦(東京ドームのアスレチックス対シアトル・マリナーズ戦)の始球式に藪恵壹とのバッテリー(藪の捕手役)で登場。日本テレビ系列で放送された地上波向けの試合中継でも、副音声で解説を担当した。ちなみに、マリナーズの「9番・右翼手」としてスタメンに起用されたイチローは、この試合の終了後に現役引退を発表している。 このシーズン、福島は前期4位・後期5位の結果に終わり、福島の監督就任後、初めてポストシーズンに進めなかった。 2020年、新型コロナウイルス感染拡大の影響でリーグ戦は3地区・6ブロック制となり、福島は中地区グループCから地区チャンピオンシップ(本年はトーナメント制)に進んだが、地区チャンピオンシップでは信濃に敗退してリーグチャンピオンシップ出場はならなかった。10月26日のNPBドラフト会議では古長拓がオリックス・バファローズから育成ドラフト6巡目で指名を受け、チーム創設以来初の指名者となった。 2021年8月28日、体調不良により監督を休養すると発表された(総合コーチの星野おさむが代行)。このシーズンは低迷して最下位に終わり、岩村はシーズン終盤に「来季優勝できなければ監督を退く」と発言したと報じられた。復帰に関する明確な発表はなされなかったが、シーズン終了後に星野は退団しており、事実上岩村が監督に復帰した形になっている。
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福島時代
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1908年(明治41年)2月14日 福島県耶麻郡塩川町下遠田において父幸七、母イチの長男として生まれる。幼い時より「生とは何か、死とは何か」「なぜ男と女とがあるのか」を問う少年だったという。 1926年(大正15年) 福島県立農林学校に入学後、極度のノイローゼにとりつかれ、線路に飛び込みする寸前に、劇的な回心を経験する。突然「己を捨て、己が十字架を負いて我に従え」という、聖書の言葉を思い出したという。1928年(昭和3年) サチ夫人と結婚(2男5女をもうける)しかし、長女と次男は幼少時に死亡 1937年(昭和12年)7月 月刊誌『待望』を発刊。1937年8月 奥磐梯の桧原湖で御牧碩太郎牧師より洗礼を受ける。 1941年(昭和16年)12月 月刊誌『待望』に非戦論を掲載したため『待望』は発禁処分。戦中戦後通して日本全国で精力的な巡回伝道活動を行う。
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