生の俳人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 21:51 UTC 版)
江戸時代を代表する俳人として、「芭蕉、蕪村、一茶」の三名の名前を挙げる習慣がある。この記述は多くの文学書などに見られ、一茶が芭蕉、蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人のひとりであるという評価は定着している。もちろん他にも優れた俳人は存在したが、この三名には他の俳人と比較して傑出した個性、独創的な作風があることは疑いようはない。 山下一海は、いわば江戸時代の俳人の三巨頭である芭蕉、蕪村、一茶の句の特徴をそれぞれ一字で表すと、芭蕉は「道」、蕪村は「芸」、そして一茶は「生」であるとしている。津田左右吉、加藤楸邨、金子兜太ら、これまで多くの一茶についての論者は、生活、生命、生命感などといった一茶の句に見られる「生」に関わる事柄に着目してきた。一茶に対して批判的な山本健吉も、一茶の句の生命的な強さは比類がないと評価している。 また一茶にとって俳句は人生そのものであったという指摘も見られる。荻原井泉水は一茶のことを寝ても起きても俳句を作らなくてはいられない「骨の髄まで俳人」であると評価し、丸山一彦もまた、一茶は死に至るまで意識、感覚をよぎる全てを手あたり次第に句に詠み続け、俳諧一筋に生き抜いたとしている。一茶の作品と「生」とは分かち難く結びついている。また夏目漱石は「芭蕉は自然に行き、一茶は人に行く」と評している。 一茶の句の生命力の源として多くの論者が指摘するのが、農民気質、土への意識、生来の野生である。実際一茶が手に汗して田畑を耕したのは江戸に奉公へ出る以前の15歳以前のことであったが、最後まで農民気質、土への意識を失うことは無かった。栗山理一は一茶を貫く宿命的な土への愛着を指摘し、閉塞感が強まる社会の中で著しいマンネリ化に陥っていた俳壇に生来の野生、土着の性根でぶつかっていったと評価している。加藤楸邨は一茶の中に息づいていた農民気質こそが一茶の句の生命力の源泉であると評価し、丸山一彦もまた、一茶は大衆化の反面、低俗化や堕落が顕著となっていた俳壇のあり方に反発し、生来のたくましい野生、飽くこと無き人間生活全般に関する関心を原動力として強烈な自我、人間の生々しい肉声を句に反映させようと試み、成功したとしている。そして水上勉は、一茶の生きざまは故郷の土と深く繋がっており、土俗の魂を抱きつつ、うめき続けた現世追求の修羅の人として句を詠み続けたとしている。 金子兜太は、一茶が詠む糞尿、放屁といった主題の句に嫌みが感じられず自然である点からも、やはり土や生き物を相手にしていく生業である農民魂を見いだしながら、それに加えて生きとし生けるものと共存、共感し、一体化していくアニミズム的なものを見ている。一茶の句には万物の精霊に呼び掛けていく性格があるとの指摘は他にも見られ、渡邊弘は一茶の句の世界における、生きとし生けるもの全てに対する共生的な世界観に注目している。 一茶の俳句が生きることを主題としているといっても、もっともらしい理屈や人生論などに拠ったものでは無く、市井に生きる人々が日常感じているありのままの喜怒哀楽を句に詠んでいった。いわば一茶は生活の中から文学を生み出していったのであり、加藤楸邨は一茶の作には生身の人間から放射されるような体臭があり、それは鍛え抜かれたものから漂ってくる生命感ではなく、町で軒を並べて生活している人間同士で嗅ぎ合うような生の感触があるとしている。丸山一彦は不幸続きであった生涯の影響を受けて一茶の作品には特異な歪みがあるが、これは生きる悲しみに深く根差した歪みであって、人の世の深さに触れる何かがあると評価している。 そして矢代静一は、一茶の句について孤高な文学者の作品などではなく、すぐそこに住む世俗的な一般庶民と同じく、地を這う人のものであるとした上で 一茶は、人生をてくてく歩みながら、肉声で句をものした凡庸にして非凡の人である。 と評価した。
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