渡河戦とは? わかりやすく解説

渡河戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/25 06:16 UTC 版)

ピルナ包囲戦」の記事における「渡河戦」の解説

10月も過ぎるとザクセン軍の窮乏はかなり厳しいものになっていた。ルトフスキーは配分減量重ねることによってなんと今まで口糧持たせていたが、10日ごろにはそれも限界来ていた。馬の場合はもっと深刻で、かなり早い段階馬糧消費し尽くした結果大半の馬は衰弱死するか酷く痩せ衰えるかし、一部近衛騎兵除いて騎兵部隊その実質を失った。また馬匹喪失砲兵にとって砲の移動不可能になることを意味し脱出の際はその大部分放棄せざるを得ないことがわかっていた。 8日の夜から、ルトフスキーは渡河作戦のため、エルベ川に舟を出して対岸地形プロイセン兵の配置偵察試みた陣地内の住民を金で雇い、曳き綱で引っ張られた舟で闇を頼みにして対岸への接近試みたが、発見されプロイセン陣地からの砲撃晒された。農民たちはパニックに陥って、引き手は曳き綱を放り出して逃げ去り、舵は今すぐこの仕事から解放してくれなければ対岸プロイセン軍引き渡す泣き喚いて、ルトフスキーは偵察中止せざるを得なかった。翌9日の夜、ルトフスキーは給金を上増して人を集め再び偵察試みたが、同様の結果終わったこのころブラウン救援軍は、エルベ右岸ベーメン国境が現在でもまともな道の通ってないようなまったくの山の中であったから、東に大きく迂回して、ベーミッシュ・ライパからルムブルクを経て真東からザクセン入りつつあった。行軍途中ブリュールブラウンザクセン軍の作戦準備遅延渡河作戦1日延期知らせてきたが、オーストリア軍予定通り進軍した11日夕刻ブラウンはシャンダウの東リヒテンハインに到着して陣を敷き、軍の一部をさらに西のミッテルドルフやアルテンドルフまで進出させた。しかしその先で、ブラウンプロイセン軍強力な陣地直面した包囲軍を指揮するカール辺境伯は、ブラウン接近通報を受けると急いで右岸兵力増強し内外からの突破備えて陣地構築させており、プロイセン軍はシャンダウ以西一帯がっちり固めていた。このあたりも左岸同様の地形で、「一大隊で一軍止めるに足る」優れた防衛適地提供しプロイセン軍先に守備固めてしまうと攻撃至難だった。対してオーストリア軍兵力最小限、しかも機動のためにわずかの砲しか備えて来なかったという不利な条件で、「ブラウン元帥のごとき経験豊かな将が、ここで攻めるようならそれは彼の名声損なわずにはおかない」と後に大王評している。ブラウン見通し甘さ直ち悟ったが、それでもザクセン軍との挟撃一縷の望みをかけていた。 10月10日から12日にかけて、ザクセン軍では脱出作戦の準備進められた。結局ルトフスキーは、ケーニヒシュタイン真正面にあってよく援護され得る右岸突出部の先端渡河することに決定しケーニヒシュタインの裾、左岸突出部の付け根にあるテュルムスドルフを架橋地点選んだ作業昼夜問わず行われたが、ひどく難航した。ピルナの倉庫にあった浮橋を、テュルムスドルフに運んで展開を始めたはよいが、ここにきて軍の中に渡河機材扱える工兵がわずか4人しかおらず、残りはすべてワルシャワにいることが判明事態はいよいよ混乱し将兵懸命努力にもかかわらず11日夜になっても完成しなかった。 12日、ようやく架橋準備整い、ルトフスキーは各部隊対し夜になれば渡河点へ集結するよう命じた。この日から翌日の朝までザクセンには雪交じり強い雨降ってただでさえ弱っているザクセン兵を余計に鞭打った。夜とともに架橋が行われ、ザクセン兵は陣地離れてテュルムスドルフへの後退開始した騎兵衰弱した馬を引っ張って歩き砲兵はその砲のほとんどを遺棄した。テュルムスドルフでは、兵士たち打たれ寒さ凍えながら渡河順番待ち残され最後パン食べてあとはオーストリア軍との合流賭けるのみとなった渡河は、悪天候のためにまず集結段階時間費やし実際渡河にはさらなる時間を必要とした。それでも13日の朝までに擲弾兵7個大隊渡河して橋頭堡確保このころには天気好転して残り部隊続々渡河した。 13日早朝左岸プロイセン軍指揮するプリンツ・モーリッツはザクセン渡河報告を受け、兵を叩き起し直ち追撃開始したプロイセン兵は7個の縦隊作ってゴットロイバの谷を越え、ゾンネンシュタイン城からロッテンドルフまでの空の防衛線を突破してザクセン軍陣地に雪崩れ込み、ツィーテンのフザール真っすぐテュルムスドルフ付近まで突入したザクセン軍の後衛もよく応戦してエルベ左岸陣地内ではおよそ半日渡って戦闘が行われ、ザクセンはいくつもある小さな丘に拠って抵抗試みるも、プロイセン軍戦列押し出してくれば後退するしかなかった。独立大隊兵士猟兵の中からザクセン軍に猛射浴びせ猟兵敗走する後衛追ってエルベ岸まで入り込み橋を渡るザクセン兵を狙撃した午後遅くになってプロイセン軍が丘の上に砲を据えて敵に2発も撃ち込んだところ、それまでよく統御されていたはずのザクセン後衛にわかに崩れ出し、まもなく潰走転じた。やがてザクセン軍は浮橋をつなぐロープ切断し分解してわずかな距離を流されたのち、すぐ近くラーテンプロイセン軍回収された。

※この「渡河戦」の解説は、「ピルナ包囲戦」の解説の一部です。
「渡河戦」を含む「ピルナ包囲戦」の記事については、「ピルナ包囲戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「渡河戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


このページでは「ウィキペディア小見出し辞書」から渡河戦を検索した結果を表示しています。
Weblioに収録されているすべての辞書から渡河戦を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
 全ての辞書から渡河戦を検索

英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「渡河戦」の関連用語

渡河戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



渡河戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのピルナ包囲戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS