永山と弁護団の対立
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「永山則夫連続射殺事件」の記事における「永山と弁護団の対立」の解説
1985年12月23日、主任弁護人・鈴木は東京高裁刑事第3部(石田穣一裁判長)に「精神鑑定申請書」を提出した。当時、第七次弁護団は差戻控訴審で再び無期懲役判決を得るために活動していたが、裁判長が柳瀬から石田に交代したことで今後の弁護方針について苦慮しており、「第一審で実施された2鑑定(新井鑑定・石川鑑定)は結論を異にしており、近年になって著しく変遷した精神医学の学問的水準から改めて検討を実施すべきだ」との趣旨から再度の精神鑑定を求めた。第七次弁護団は1986年(昭和61年)1月31日に「精神鑑定申請補充書 1」を、同年3月31日には(当時、他の弁護人5人が解任されていたため唯一の弁護人だった)大谷恭子が「精神鑑定申請補充書 2」をそれぞれ提出した。 一方で精神鑑定申請は弁護団にとって「最後の手段」であったが、これに激怒した永山は当時、河出書房新社の『文藝』編集部から「『木橋』(1984年7月に刊行された小説集)に連なるものが欲しい」と依頼されて取り組んでいた小説の執筆を中断し、1986年1月23日には主任弁護人・鈴木について「鈴木が申請したものは精神医学による鑑定のみで、自身の科学思想を殺し、権力犯罪を揉み消すものだから受諾できない」との理由から解任届を提出した。また、同年2月26日には弁護人4人(舟木友比古・古川労・渡辺務・新美隆)についても「事実を歪曲した上で人格中傷攻撃を行っている」として、同年3月31日には大谷についても「自身への人格攻撃をしている」として、それぞれ解任届を提出した。結局、東京高裁は弁護人不在の事態を解消するため、同年4月4日に鈴木・大谷を「本事件と被告人・永山に精通している」との理由から職権で国選弁護人に選任した。これを受け、鈴木は永山に面会して精神鑑定を受けるよう説得したが、受け入れられなかったことから「これ以上は被告人を弁護できない」として、第13回公判(同年4月25日)には鈴木・大谷の2弁護人とも出廷しなかった。そして同年5月8日、鈴木・大谷両弁護士は石田裁判長に「国選弁護人選任命令は自分たちの承諾を得ずに出されたもので無効である」として命令の撤回を申し入れ、同年5月20日には第二東京弁護士会会長も東京高裁長官に対し「当会では『裁判所が直接国選弁護人を受任してはならない』と定めており、当会も鈴木・大谷を推薦していない。選任命令を撤回し、私選弁護人の選任がなければ『特別案件』として弁護士会に推薦依頼をなすべきだ」と申し入れた。これを受け、同年7月15日に高裁は鈴木・大谷両弁護人を解任し、新たな国選弁護人として遠藤誠(第二東京弁護士会所属)が選任された。 第14回公判(1986年9月24日)では遠藤弁護人が元弁護人の鈴木・大谷両弁護士からこれまでの弁護活動について尋問したほか、永山が自ら作成した「業績鑑定請求書」を東京高裁に提出した。第15回公判(1986年10月15日)で永山と離婚した元妻が情状証人として出廷し、「自分も永山を理解しようとしたが、やがて自分を『CIAのスパイ』呼ばわりするようになり、理解できなくなった。『静岡事件』と『三億円事件』を結びつけるのは完全な誤解だ。弁護人・支援者らが次々と永山の許を去ったのは、彼の精神状態が不健康だからだ。精神鑑定を受けなければ、永山は公正な裁判を受けられない」と陳述した。第16回公判(同年11月12日) - 第18回公判(同年12月12日)には被告人・永山への被告人質問が行われ、遠藤は「永山に言いたいことを言わせ、裁判官に判断してもらおう」とし、永山が事件を起こすまでの経緯や起訴後に弁護人・支援者たちから翻弄され続けたことなどを話させた。第18回公判にて永山は最後の被告人質問に当たり、以下のように陳述した。 マルクス主義は古い科学で、僕の思想はマルクスを超えた。かつて無知だったころ、同じ階級の仲間を殺したことは、深く反省しているが、今の僕は殺される理由がない。死刑はファシズムの刑罰であり、学術的な面で人類に役立つ世界に二人といない科学者の僕を、決して当局が殺すことはできない — 永山則夫、佐木隆三 (1994) , p.454 第七次弁護団が請求していた精神鑑定・永山が請求していた業績鑑定はいずれも同公判で却下され、事実審理は終了した。そして次回、1987年(昭和62年)1月19日に最終弁論が行われて結審し、弁護人・遠藤は「永山は事件当時、精神的に未成熟だったが、現在は深く反省している。応報主義により死刑に処して永山を抹殺するのではなく、自らの罪を自覚させることにより更生させ、世に有益な人材に生まれ変わらせる教育刑主義を唱える少年法の精神を尊重すべきだ」と死刑回避を求めた一方、検察官(山田一夫・吉村徳則両検事)は「永山の職歴や事件の経緯・動機・手段などを見れば事件当時、永山は年齢相当に十分成熟していた。証拠上明らかでない事実を前提に『本件には少年法51条の精神を及ぼすべきだ』とした差戻前控訴審判決の判断は、最高裁判決が指摘する通り首肯し難いもので、永山は現時点でも『最高裁判決はファシズムの裁判で、自分を死刑にすることは全人類への犯罪だ』と主張しているほか、『あくまで自己の犯罪の原因は資本主義の国家社会にある』とする思考は第一審以来現在まで全く変わっていない。反省悔悟の情は深まっておらず、量刑上有利に斟酌されるべき新たな事情は見当たらないため、弁護人および被告人(永山)による控訴は棄却されるべきだ」と訴えた。
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