民生デイゼルの製品史
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1950年(昭和25年)- 民生産業の自動車部門の資産を継承し、資本金1億円をもって民生デイゼル工業 として発足。戦前にダットサンを設計した事で知られる技術者の後藤敬義が社長となる。この頃ふじ号ボディを改良したBR30型民生コンドル号バスを発売、主力商品になる。(後身の日産ディーゼル工業が開発した同名の中型トラックとは無関係)以降バスについては#バス史を参照。 日産180型ベースの4t積トラックを生産。それを5t積に改良してKD2型を搭載したトラックがミンセイTS21 / TN50型である。更にミンセイ独自のKD3型90 ps搭載のTN93型軸距4.6 m・7.5 t積も市場へ投入、背高エンジンでボンネットは高いが、他社の直列6気筒に比べコンパクトな直列4気筒のため、荷台を長くできた。ついで10 t積軸距4 mダンプTZ10型、7 t積軸距4.35 mのTN96型、軸距4.35 m・6 t積のTN95型(いずれもKD3搭載)もラインナップ。 1953年(昭和28年)- 日産自動車 が資本参加。4.5 t積TS23型追加。エンジンもKD2型が70 psへ、KD3型が105 psにパワーアップ。後にKD2はKD2B型80 psとなる。 クルップ系のKDエンジンはその強力さをセールスポイントに、20年近くに渡って日本ディゼル・鐘淵ディゼル・民生の主力エンジンとして用いられてきたが、各シリンダー毎に上側ピストンとクランクシャフトとを連結するサイドロッドを2本ずつ備えた、複雑なエンジンブロック構造を強いられる対向ピストン型エンジンは、製造コスト・ランニングコストが割高で、エンジンの背が高すぎるうえ騒音と振動も大きく、性能向上は限界に達していた。このため民生では競合他社の4ストロークエンジンに対する抜本的対抗策が求められ、2ストローク方式は踏襲しながらも新たな方式のエンジンが導入されるに至る。 1955年(昭和30年)クルップ系エンジンに代わり、GM(傘下のデトロイト・ディーゼル社)の特許による ユニフロースカベンジング 2ストロークディーゼルエンジン、シリーズ71 のライセンス生産契約を締結、直列3気筒 3,706 cc 120 psの UD3型 と、直列4気筒 4,941 cc 150 ps の UD4型 を発表、後に直列5気筒 6,177 cc 215 ps の UD5型、直列6気筒 7,413 cc 230 ps の UD6型 も追加する。UD3型は日産・680トラックに搭載され、TS23はUD3搭載の軸距4m5t積TS50型へ、TN93はUD4型搭載と共に軸距4.8 m、スタイルも一新してT75型となる。更にUD6型搭載の6TW型(当時国内最大の10.5 t積)重トラックが発売される。国産初の民間向け3軸10輪大型トラックで、大きすぎて売れないと懸念する声もあったが、運送業界からは歓迎された。 また、回転慣性が少なくレスポンスの良いUDエンジンは、トランスミッションのシンクロメッシュがまだ無い時代にもかかわらず(故にダブルクラッチ操作のテクニックを要した)、シフトチェンジが軽快に決まり、ドライバーには好評だった。もっとも、軽量高速エンジンとしての単体性能では他社製品をも凌駕したが、騒音と燃費、そして始業点検におけるインテークマニホールドのオイル抜きを要する面で、競合メーカーの4ストロークエンジンに比べ不利であった。 販売機構を充実するため、日産自動車 と折半出資による総販売会社日産民生ジーゼル販売 を設立し、販売部門を分離 1959年(昭和34年)T80型 T75系軸距4.8 mのままシャシを強化した8 t積ボンネット型トラック。一方「卵を運んでも割れない車両を」という運送業界のニーズから、RFA型バスより転用したエアサス仕様のTA型もラインナップされた(型式の「A」は共にエアサスの意)。しかし高速でも振動の少ないサスペンション性能がドライバーのスピードオーバーを招きがちでかえって危険であり、コストも高かったことから、比較的短期間で生産中止。舗装路がまだ少ない時代の振動対策としては進んだ試みであったが、道路インフラ自体が不十分な当時としては時期尚早であった。 1960年 - T80ベースの3人乗りキャブオーバー型、TC80型 を発売。軸距を5 mとし、荷台長が800 mm拡大される。
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