残留者帰還問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/10 14:54 UTC 版)
1956年の日ソ国交正常化による樺太引揚で日本に住んでいた在日朝鮮人朴魯学と堀江和子の夫妻が、1958年頃から樺太に残った残留朝鮮人帰還運動に取り組んでいたが、1975年12月、高木健一を初めとする弁護士らが日本人と同じく出稼ぎや徴用によって樺太に来歴した在樺コリアンを「日本の強制連行が原因」と突然主張しはじめ、4人の在樺コリアンを原告とする「樺太残留者帰還請求訴訟」を起こしたことで、この問題は政治的な色彩を帯びていった。善意の民間人として帰還支援していた新井佐和子や朴魯学夫婦は帰還支援より政治的目的のための裁判を支援した日弁連・日教組・自治労・日本社会党など進歩的文化人、市民団体や総評系労働組合が純粋な帰還支援活動から自身らの反日本政府のイデオロギーのための政治運動に変質させて政治利用したことを強く批判している。 韓国では1948年の建国当初の李承晩大統領の在外韓国人受け入れ拒否姿勢だった。しかし、朴正煕大統領は日韓基本条約以降に日本から資金と技術支援を元手に国内投資に回して漢江の奇跡により1970年代には経済新興国になっており、条約締結後に今までの政府は在外同胞に冷淡だったとして受け入れを表明していたなど日本を通じた韓国人の流入が日韓の間で容易な状態になっていた。 ソ連邦当局は、1960年半ばから1976年の半ば頃までは、直接国交のない南朝鮮地方(現韓国)出身の帰還希望者の帰還申請に対し「日本政府が韓国政府から許可とれば出国を認める」としていた。ソ連と直接国交のない韓国政府の同意により、日本政府は1976年4月から仲介を開始するが、ソ連政府は同年7月頃から出国許可を認めなくなった。 1976年10月迄の日ソ間の帰還交渉において、在樺コリアンの日本へ入国申請者は331名、このうち日本滞在を経て韓国へ帰還を希望するものが330名、日本で永住を希望する者が1名であった。この帰還交渉では、日本政府が過去の在日履歴等を確認し、韓国政府の帰還認可を受けて、ソ連と出国交渉する形で進められた。同年の報告では、日本側の入国認可者19名のうちソ連が出国認可した者は1名、また日本政府を介して韓国政府の受け入れ認可を待つ者が5名となっている。結果的に出国出来たのは日本入国から韓国へ帰国1人・帰国せずに日本に留まった2名であった。 1983年には上記の朴魯学夫婦と草川昭三議員らが中心となり、ソ連の国交がない韓国地域の出身者を日本で家族と再会できるようしようと国の事業としての家族再会事業が行われるようになった。しかし、この事業について韓国を独裁政権として北朝鮮を社会主義・共産主義の友好国としていた日弁連・日教組・自治労・日本社会党など進歩的文化人、市民団体や左派労働組合は「サハリンの朝鮮人はみな朝鮮民主主義人民共和国の国民と認められるから韓国に還すことに協力できない」という立場を取って韓国への帰還させることに反対した。 1987年に今度は日本社会党の五十嵐広三議員が中心となり「サハリン残留韓国、朝鮮人問題議員懇談会」が出来て補償的な側面を見せながら人道的な支援事業として外務省に予算化されることとなった。この事業は毎年1億円程度であったが1994年の村山内閣で社会党が予算編成に関わって以降に大幅に予算が増額された。これにより2007年度には「在サハリン『韓国人』支援」名目で3億円の予算が計上され、2007年までに政府が拠出してきた金額は70億円に達している。支援の内容としては、韓国への永住希望者が住む家賃無料のアパートの建築費、病弱者を対象とした療養院に対する建設費やヘルパー代、1989年7月には大韓赤十字社と日本赤十字社との間で、在サハリン韓国人支援共同事業体が設立され、それに拠出する形で、永住帰国はしないが韓国へ一時帰国を希望する人々の往復渡航費と滞在費の負担、また2006年には 同事業により、樺太に留まる韓国国籍ののみのために、ユジノサハリンスクにサハリン韓国文化センターが建設もされている。 戦後、北朝鮮から派遣労働者としてサハリンに渡った人など「日本とは何の関係もない人」も支援を受けていることが判明しており、戦後60年以上となり「もはや支援対象者はほとんどいなくなったはずであり、理由なき支援ではないか」との批判も出ているが、2007年、韓国は「まだサハリンには韓国への永住希望者が3000人以上も残っている。数百人単位で順次、帰国させたい」として、日本側に支援を要求した。
※この「残留者帰還問題」の解説は、「在樺コリアン」の解説の一部です。
「残留者帰還問題」を含む「在樺コリアン」の記事については、「在樺コリアン」の概要を参照ください。
- 残留者帰還問題のページへのリンク