残置私有財産返還要求運動と援護行政
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「引き揚げ」の記事における「残置私有財産返還要求運動と援護行政」の解説
引き揚げ者は、1000円の現金と自力で運ぶことができる若干の荷物しか帯行が許されず、その財産のほとんどを海外に残し日本に引き揚げた。引き揚げ者の多くは、日本国内の地縁血縁も少なく、戦後の混乱した厳しい社会環境のなかでの生活の再建を余儀なくされた。しかし、生活の再建は容易なものでなく、引き揚げ者の厳しい生活の実態は社会問題となった。 全国の引き揚げ者は、海外に残された財産の補償を強く政府に働きかけることになった。いわゆる「在外財産補償問題」である。日本国政府は、数次にわたり審議機関を設置し、この問題の検討をした。ようやく1956年(昭和31年)12月になり第二次在外財産問題審議会による答申が、政府に提出された。 その答申は、日本国政府に在外財産の補償をすべき法律的義務があるか否かという根本的問題については結論を得られないとしたうえで、引揚者の特殊性すなわち全生活基盤を失ったまま日本への帰還を余儀なくされたということに鑑み、給付金等による生活基盤再建のための特別の政策的援護措置を講ずべきとされた。政府はこれを受け、引揚者給付金制度を設け、終戦時外地に6か月以上生活の本拠を有していたことを条件に、償還期間10年、年6分の国債を交付した。金額については、50歳以上の者の2万8000円から18歳未満の者の7000円まで年齢により数段階の区別があった。 しかし、引揚者給付金制度による交付によって一時下火となった在外財産補償問題は、その後活発になった。引き揚げ者にしてみれば、最高2万8000円程度の金額は単なる「見舞金」にすぎないと感じられた。引き揚げ者は、平和条約によって賠償として提供された自分達の財産を、憲法の条項に従って補償を求めていたのである。1966年(昭和41年)から1967年(昭和42年)にかけて大規模な全国大会が開かれ、国会議員の間でも関心が高まった。 そのため1968年8月『引揚者に対する特別交付金の支給に関する法律』(昭和42年8月1日法律第114号)が公布された。この法律により、引揚者及びその遺族並びに引揚前死亡者の遺族に対する特別交付金の支給に関し必要な事項が規定された(同法第1条)。まず同法は「引揚者」を以下のように定義する(抄録)。 「外地」(日本本土以外の地域)に1945年(昭和20年)8月15日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、終戦に伴って発生した事態に基づく外国官憲の命令、生活手段の喪失等のやむを得ない理由により同日以後日本に引き揚げた者 外地に1945年8月9日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、ソヴィエト社会主義共和国連邦の参戦に伴って発生した事態により同日以後終戦日前に本邦に引き揚げた者 外地に終戦日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、日本国内に滞在中、終戦によってその生活の本拠を有していた外地へもどることができなくなった者 日本のもと委任統治領であった南洋群島に1943年(昭和18年)10月1日まで引き続き1年以上生活の本拠を有していた者で、戦争に関連する緊迫した事態に基づく日本国政府の要請により同日以後終戦日前に日本に引き揚げた者(同法第2条各号) この法律により、総額1925億円の特別交付金が交付された。交付金額は、終戦時の年齢に応じて一人当たりの金額が決められた。具体的には、終戦時50歳以上の者は16万円、35歳以上50歳未満の者は10万円、25歳以上35歳未満の者は5万円、20歳以上25歳未満の者は3万円、20歳未満の者は2万円であった(同法第6条第1項)。いずれも10年均等償還される無利子の記名国債が交付された(同法第7条第1項)。 1975年(昭和50年)7月に、当時の三木首相は「特別交付金支給」をもって在外財産の処理は最終的に解決されたと発表した。この発表により引き揚げ者の在外財産の返還の途は、閉ざされることになったのである。
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