最初のエピソードと「ヴァリエテ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/05 15:15 UTC 版)
「トト (俳優)」の記事における「最初のエピソードと「ヴァリエテ」」の解説
兵役後も彼は海兵隊に務めなければならなかったが、規律をこなさなかった彼は逃亡し、喜劇役者として活動し始め、『ベル・チッチーロ(美しい贅肉)』や『夜のイヴォンヌ』で知られる芸人エドゥアルド・ダチェルノの脚本家となった。そののちサラ(劇場)・ナポリでの最初の舞台でナポリ歌謡の歌手E. A. マリオのパロディを演じて成功し、テアトロ(劇場)・オルフェオの俳優ニーノ・タラントの目に止まった。 20代の初め、母は軍人のフランチェスコ=マリア・ガリアルディ=フォカスと再婚し、彼の養子となる。この新しい家族は、両親への反対にもかかわらず、つまりトトが後年「途方もない」と書いたように、何の得になる要素も、堕落した大根役者で構成された三流劇場の支配人ウンベルト・カペーチェの代償もなく、ローマに移住した。こうしてトトはコンメディア・デッラルテに出演するようになり、プルチネッラを演じ、観衆からの特別な評価を稼いだ。しかしながら、この若者が劇場で成功するにはまだ少なからぬ苦難が必要であった。給料もなく、トラムの切符さえ買えない彼は、インディペンデンツァ広場から街の反対にある(ヴァチカン市国に隣接する)リソルジメント広場までたどり着くのに、冬の寒さの中で僅か数銭を求めて物乞いする有様であり、これもまた「途方もない」状態であった。このような事態はトトの心身にとって辛く、いやいやながらトトは劇場から去って行った。 短いながらも失業していた期間中、トトは憂鬱に陥り、彼の気が晴れるのは小さな仕事で日銭を手にした時のみだった。この時の経験が元になって、彼の演劇の方向性はヴァリエタ(バラエティ、フランス語のヴァリエテvariété)に狙いを定めるようになる。ナポリの劇団の座長フランチェスコ・デ・マルコに会うことを試みるが、おそらくは彼の不安から、直前になって思いとどまった。 結局トトは、グスターヴォ・デ・マルコ(同姓だがフランチェスコの縁戚ではない)にインスピレーションを得てモデルとしつつ、一人で活動することになった。子供時代からものまねを得意としていたトトにとって、鏡の前で他人の演技を模擬することは難しくなかった。周到に準備したトトは、ヴァリエテで有名なアンブラ・ジョヴィネッリ劇場の舞台を踏んだ。そこはエットーレ・ペトロリーニ、ラファエレ・ヴィヴァーニ、アルマンド・ジリ、ジェンナロ・パスカリエッロ、アルフレッド・バンビといったヴァリエテの役者たち、そしてグスターヴォ・デ・マルコ自身も常連とする劇場であった。劇場支配人で、地元のマフィアのボスでもあるジュゼッペ・ジョヴィネッリとの短い面談の結果、トトはその歓喜的な外見と不真面目さのおかげで、即座に採用となった。トトはデ・マルコの3本の喜劇、『ベル・チッチーロ』『ヴィペラ』『パラグアイ』を演じ、劇場の常連客からの成功を得た。彼は契約を延長して多数のヴァリエテに出演したほか、ボクサーのオッド・フェレッティとの見世物試合ショーも演じた。 劇場の観客から得た支持は報酬には結びつかなかったが、それは芸術家の暮らしのスタイルであった。支払いはとても低く、洗練されたアクセサリー(それは後年トトの趣味となるのだが)を身につけた余裕のある暮らしなどとてもできないものであり、身なりも良くならず、ましてや髪さえ整えられず、ロドルフォ・ヴァレンティーノのような口ひげなどもってのほかだった。従って散髪は劇場で知り合った床屋のパスカリーノのところで済ませていた。この時期、彼はサルヴァトーレ・カタルディ、およびウンベルト1世劇場のヴォルファンゴ・カヴァニーリャの脚本家をしていた。 トトは劇場の知識を蓄え(この時期は劇場に一人暮らしで住み込んでいた)、すれた山高帽子、大きすぎるコート、着古したシャツやベスト、安物の紐履やネクタイ、短すぎあるいは長すぎるズボンといった出で立ちを纏っていた。しかしながら夜となると素晴らしい演技でグスターヴォ・デ・マルコの受け役でヴァリエテをこなした。ウンベルト1世劇場の舞台は喝采とアンコールを求める声で埋め尽くされ、この経験はトトのヴァラエティ芸人の地位を確固たるものにした。 「取るに足らないもの、つまらないもの、些細なこと!」--トトの定番のセリフより 1923年から1927年まで、彼はイタリアの主な劇場カフェに出演し、全国に知られるようになった。余裕のできたトトは身なりも良くなり、髪も整えてロドルフォ・ヴァレンティーノのような口ひげも生やして「バラのような」暮らしになった。特に女性にももて始め、トトは劇場に出入りする女性歌手やバレリーナとの「冒険」を楽しみ、文字通り「女に入れあげ」た。ショーの始まる前、彼は観客席を見回して美人を探し、幕間や終演後に楽屋に連れ込んだ。 1927年には2つの異なる劇団の主催者であるアキーレ・マレスカと契約を結んだ。トトは当時のプリマ・ドンナであるイザ・ブルエッテの、それから1928年には同じくアンジェラ・イッパヴィッツの前座を務めた。彼女らの周りには「リップ」と呼ばれたルイジ・ミアッリャや、「ベル・アミ(フランス語で親友)」アナクレート・フランチーニがいた。最初の劇団では後の相棒を務め彼の片腕と呼ばれるマリオ・カステラーニと出会った。 1929年にはアキーレ・マレスカの公演でラ・スペツィア劇場の舞台を踏み、ヴィンツェンツォ・スカラ男爵と契約し、ナポリ新劇場の切符売り場の看板にその名を貼り出された。またそこでは「ヴデット(スター)」としてエウジェニオ・アウリツィオと契約し、マリオ・マンジーニ、エドゥアルド・シャルペッタとともに、演劇『Miseria e nobiltà (貧乏人と貴族)』『Messalina e I tre moschettieri (メッサリーナと三銃士)』(ダルタニャン役)に出演し、女優ティティーナ・デ・フィリッポと共演した。メッサリーナはとりわけ観衆の目を引き、トトは緞帳によじ登ってしかめ面をして注目を浴びた。
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