最初のクライストチャーチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:58 UTC 版)
「クライストチャーチ大聖堂 (ダブリン)」の記事における「最初のクライストチャーチ」の解説
最初の大聖堂は1038年に当時ダブリンを治めていたデンマーク系ヴァイキングの王であるシトリック・シルケンベアード (Sitric Silkenbeard) が最初のダブリン司教であるドナート (Donat)、もしくはドナー (Donagh) と呼ばれる人物のために建造したことにさかのぼる。その当時のダブリン司教区は周りを巨大なグレンダーロッホ司教区に囲まれる小さな司教区であり、カンタベリーに依存している状態であった。 教会はウッドクウェーのヴァイキング入植地を見渡す高地に立てられ、シトリックはそれの維持管理のためにバルドイル (en)、ラセニー (en)、ポートレーン (en)の土地を与えた。当時4つの古いケルト系キリスト教の教会がダブリン周辺に存在していたと考えられ、聖マルティヌスに捧げられたひとつだけはヴァイキング居留地の壁の内側に位置しており、そのためクライストチャーチは居留地内に2つだけある教会のひとつであった。 ダブリン司教はもともと修道院外の聖職者から選ばれていたが、次の司教はベネディクト会修道士から選ばれ、その後1163年、クライストチャーチは後の聖人であり2代目のダブリン大司教であるロレンス・オトゥール (en) によってArrouaise(アウグスティヌス系修道会のルールを改めたもの)の教義に従う修道分院 (Priory of the Regular Order of Arrosian Canons) に変わった。教会はその後宗教改革まで聖アウグスチノ修道会としてその修道院長によって率いられた。修道院長は教区の聖職者の序列の2位に位置づけられ、1541年に宗教改革に基づく構造改革が行われるまで首席司祭(Dean。大聖堂の長)ではなかった。
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