最初のショヒド・ミナール
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「ショヒド・ミナール」の記事における「最初のショヒド・ミナール」の解説
最初のショヒド・ミナールは、2月21日の運動のすぐ後に建設された。この最初の記念碑の主な計画者およびデザイナー、サイード・ヘイダーによれば、この場所へ建設するという決定は、最初にダッカ医科大学の学生達によって下されたという。建設計画は2月22日の真夜中からスタートし、工事はその翌日に始められた。当時この場所では夜間外出禁止令が出されていたが、生徒達は2月23日の午後にミナールの建設を開始した。彼らは夜を徹して作業を行い、夜明けには工事が完了した。ミナールには手書きで、「Shaheed Smritistombho(犠牲者の碑、の意)」の文字を書いた紙が貼り付けられた。この最初のミナールは、縦10フィート、横6フィートの大きさであった。ミナールは虐殺で殺されたソフィウル・ラハマン (Sofiur Rahman) の父親により、落成式が行われた。しかし、これはその後数日で、警察隊とパキスタン軍により取り壊されてしまった。
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