最初のキャスティング
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「トラ・トラ・トラ!」の記事における「最初のキャスティング」の解説
1968年11月初め、1968年12月2日に東映京都撮影所(以下、東映京都)から撮影に入る等、概要が報じられた。なぜ、黒澤が勝手知ったる東宝撮影所でなく、東映京都を選んだのかをはっきり書かれた文献がないが、深作欣二は「詳しい内情は知らなくて聞いた話でしかないわけですけれど」と前置きした上で「比較的大きなステージがあったのと、東宝とのある種のもつれみたいな何かがあって、外で撮らざるを得なかったんですかね」と述べている。 製作スケジュールは1969年3月までに全編の半分強を占める日本側の部分を撮影し、その後、黒澤監督が渡米してアメリカ側の部分を撮影、暮れまでに完成して1970年1月公開の予定、アメリカ側からもリチャード・フライシャーら五人の監督が立つが、黒澤監督は総監督的な立場からその現場に立ち会う、20世紀フォックスのザナック社長も「これは黒澤作品だと全世界に言っている、アメリカ側は、国防省、国務省の協力も大変なもので、真珠湾内フォード島の全面的使用、格納庫の爆破、艦隊や航空機の移動などの協力にも快諾を得たと報じられ、ザナック社長も「製作費はどのくらいかかるか分からない」と話したといわれ、黒澤プロの日本側プロデューサー・青柳哲郎も「製作費はまだ正確に算出できない状態。とにかく『史上最大の作戦』や『クレオパトラ』以上のものになると思う」と話した。また黒澤の「スターを起用すると、どうしてもそのイメージが先行するという考えから、主要キャストに素人を起用することは日米双方で合意した基本方針と説明があり、「キャスティングは一年かかってようやく決定した。顔が似ているということが絶対条件だったわけではなく、中身からにじみ出てくるものが選考基準になった」などと黒澤は説明した。山本五十六役には高千穂交易の鍵谷武雄社長など、主要キャストの決定もこのとき報道された。俳優の出演者は青柳プロデューサーが"黒澤作品"という"錦の御旗"を看板に安く口説き、しかも三、四ヶ月拘束という悪条件を飲ませたといわれる。 1968年11月26日、20世紀フォックスと黒澤プロの共同製作になる『トラトラトラ』(原文ママ)の主要出演者決定披露の記者会見が東京ホテル・オークラで行われた。大きな話題を呼んだのが黒澤が山本五十六などの軍人役としてプロの俳優でなく演技の素人を大量に起用したことで、そのほとんどが財界人。黒澤の意向により、財界人中心の集まりである東京キワニスクラブに出演依頼の声がかかり、黒澤の面接を経て、海軍経験者を中心に会員十数名が選ばれた。主役の山本五十六には高千穂交易の鍵谷武雄社長、宇垣纏参謀長に前防衛事務次官・三輪良雄、黒島亀人参謀に彫刻の森美術館常務理事・牧田喜義、第六艦隊司令長官清水光美中将に東急国際ホテル常務・岩田幸彰、航空隊参謀長大西瀧治郎少将に日本短波放送常務・安藤審、山口多聞に北野建設社長・北野次登、福留繁に青木金属興業社長で日本陸連幹部・青木半治、伊藤整一軍令部次長に八千代製作所社長・南出他一郎、野村吉三郎駐米大使に長野放送専務・小幡康吉、来栖三郎全権大使に伊藤忠商事常務・片桐良雄、喜多長雄ハワイ総領事に東洋エチル常務・永井邦夫、木戸幸一内府に幸一の二男で国際弁護士の木戸孝彦、東郷茂徳外相に日本音楽著作権協会理事長・春日由三(平沢和重代理)などで、この会見で役者が演じると発表されたのは、源田實・山崎努、南雲忠一・東野英治郎、三川軍一・藤田進、吉川猛夫・中村敦夫、近衛文麿・千田是也、東條英機・滝沢修、及川古志郎・島田正吾、松岡洋右・辰巳柳太郎ら。この日発表された全出演者が軍服で記者会見に臨んだ。源田實はこの会見に出席し、源田を演じる山崎努と握手を交わした。ザナックは二度目の来日で『史上最大の作戦』の成功で米国退役軍人会から贈られたという純白の将官衣装という人を喰ったような衣装で出席し、「太平洋をはさんで偉大な日本とアメリカ国民が、歴史上意義あるこの作品に寄せる関心の前に誇りを感じている。アメリカがパールハーバーを攻撃されたことはアメリカ国民は誰でも知っている。もう二十余年も前のことだが反響は大きく、原作が『リーダーズ・ダイジェスト』に載ったのはもう五年も前のことだが、近く一本になって出版されることでもその一端が理解されよう」と話した。また黒澤監督による配役決定経緯の説明もあったが詳細は不明。
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