最初のウムラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 02:54 UTC 版)
イスラーム教の伝説によれば、翌629年 (ヒジュラ暦7年) にフダイビーヤの和議に従い、ムハンマドと信徒2,000人が最初のウムラを行った。その後、ムハンマドは同年12月にメッカ征服を命じて自らも参加したとされる。メッカ征服後、ムスリムを迫害し戦ったメッカの住民はムスリムからの報復を恐れていたが、ムハンマドは彼らを許したという。 メッカ征服後、殺人やその他の罪を犯したり、和平を破り戦争を起こしたとされるイクリマ・ブン・アビー・ジャフル(アラビア語版、英語版)、アブドゥッラー・ブン・サアド・ブン・アビー・サルフ(アラビア語版、英語版)、ハッバール・ブン・アスワド、ミクヤース・スバーバ・ライスィー、フワイラス・ブン・ヌカイド、アブドゥッラー・ヒラールと4人の女性の計10人は許され、殺されることはなかった。 イスラーム教の預言者ムハンマドは生涯に4度、移住先のマディーナからメッカに巡礼しようと試みた:15-54。最初の1回(628年)は妨害にあって失敗、続く2回目(629年)と3回目(630年)は巡礼こそ実現させたものの、ムハンマド当人はこれらを不完全なものと捉えた:15-54。632年に自分の死が近いことを知ったムハンマドは、4万人とも伝わる信徒を連れてメッカに4回目の巡礼を行い、その後死去した:15-54。こうした経緯から「別離の巡礼」あるいは「告別の巡礼」と呼ばれるこのときの巡礼の際にムハンマドが実行したと伝承される数々の儀礼プロセスの全体が、625年にムハンマドに啓示された、ムスリムの義務とされる巡礼(=ハッジ)であると理解された:15-54。 歴史的にはこのように確立されていったハッジの具体的な実践儀礼は、坂本(2000)が解説するところによると、次の5つのプロセスを踏む:15-54。(1) 巡回の儀礼、(2) 早駆けの儀礼、(3) アラファートにおける立礼、(4) ミナーにおける投石儀礼、(5) 犠牲祭(日本語への訳語はいずれも坂本(2000)が選択したところによる):15-54。このうち、(1) 巡回の儀礼と (2) 早駆けの儀礼はいつ実践してもよいとされ、この部分だけを取り出して行うのが「ウムラ」である:15-54。 ウムラの効用に関しては、前回のウムラから日常生活において犯してしまった罪が次回のウムラで帳消しになるという趣旨のムハンマドの言葉の伝承が伝わっているが、ハッジの効用に関しては何も伝わっていない:76。少なくとも歴史的には、ウムラに贖罪の作用があると信じられていたと言える:76。
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