日本のお歯黒の歴史
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起源はわかっていないが、初期には草木や果実で染める習慣があり、のちに鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わったようである。 古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはお歯黒の跡が見られる。 『山海経』に黒歯国(『三国志』魏志倭人伝では倭国東南方)があると記述がある。 天平勝宝5年(753年)に鑑真が持参した製法が東大寺の正倉院に現存する。 鑑真が中国から伝えた製造法は古来のものより優れていたため徐々に一般に広まっていったが、その製造法は当初は仏教寺院の管理下にあった。このあたりが一般に日本のお歯黒が仏教に由来する習俗と言われる所以かもしれない。 お歯黒に関する言及は『源氏物語』、『堤中納言物語』にもある。平安時代の末期には、第二次性徴に達し元服・裳着を迎えるにあたって女性のみならず男性貴族、平氏などの武士、大規模寺院における稚児も行った。特に皇族や上級貴族は袴着を済ませた少年少女も化粧やお歯黒、引眉を行うようになり、皇室では幕末まで続いた。 室町時代には一般の大人にも浸透したが、戦国時代に入ると結婚に備えて8〜10歳前後の戦国武将の息女へ成年の印として鉄漿付けを行ない、このとき鉄漿付けする後見の親族の夫人を鉄漿親(かねおや)といった。また、一部の戦国武将(主に小田原北条家をはじめ他)は戦場に赴くにあたり首を打たれても見苦しくないように、ということから女性並みの化粧をし、お歯黒まで付けたという。[要出典]これらの顔が能面の女面、少年面、青年面に写された。戦国時代までは戦で討ち取った首におしろいやお歯黒などの死化粧を施す習慣があり、首化粧、首装束と呼ばれた。これは戦死者を称える行為であったが、身分の高い武士は化粧を施し身なりを整えて出陣したことから、鉄漿首(お歯黒のある首)は上級武士を討ち取ったことを示す証ともなったため、功を高める(禄を多く受ける)目的で白い歯の首にもお歯黒を施すこともあった。 江戸時代以降は皇族・貴族以外の男性の間ではほとんど廃絶、また、悪臭や手間、そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあって既婚女性、未婚でも18〜20歳以上の女性、および、遊女、芸妓の化粧として定着した。農家においては祭り、結婚式、葬式、等特別な場合のみお歯黒を付けた(童話ごんぎつねにもその描写がある)。 1870年3月5日(明治3年2月5日)、政府から皇族・貴族に対してお歯黒禁止令が出され、それに伴い民間でも徐々に廃れ(明治以降農村では一時的に普及したが)、大正時代にはほぼ完全に消えた。 以上をまとめると、お歯黒を用いた日本の社会階層は以下の通りである。 平安時代皇族・平安貴族(元服・裳着後袴着後の少年少女もする場合あり、男女、未既婚を問わず) 武家平氏(源氏は付けない場合が多かった) 大規模寺院における稚児 戦国時代婚姻した、また婚約した幼い姫君 一部の戦国武将(以上は何れも眉を剃り、殿上眉を描く) 江戸時代皇族・貴族 都市部の既婚女性全般(引眉する、ただし武家では出産後に引眉する) 18〜20歳以上の未婚女性(引眉する場合としない場合有り) 遊女(江戸、上方、共、一人前、引眉しない) 芸妓(上方のみ、一人前、引眉しない/江戸は付けない)
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