日本の『ブロックくずし』ゲーム作品事情
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「ブロックくずし」の記事における「日本の『ブロックくずし』ゲーム作品事情」の解説
日本では早くから海外メーカーからのライセンス生産を行った、タイトーが発売したのが始まりである。さらにタイトーは、従来アップライト型しか無かった筐体に、テーブル型の筐体を開発した。これはタイトーが元々ジュークボックスの輸入販売で、あちこちの飲食店にコイン投入式機械を収める得意先を持っていたのがきっかけで、喫茶店で接客テーブルとゲーム機どちらでも使える筐体を置くことにより、店にとって効率良い営業を目指したものである。これは予想以上の成功を収め、喫茶店が大きなゲーム市場として開かれていった。以後テーブル筐体は同様にジュークボックス販売を行っていたタイトーの『スペースインベーダー』のヒット時にも起爆剤となり、1990年代までその姿が日本のあちこちで見られた。 日本の中堅ゲーム会社の多くは『ブロックくずし』でビデオゲームに参入した。主な会社だけでユニバーサル(後のアルゼ)を皮切りに、コナミ工業(後のコナミデジタルエンタテインメント→コナミアミューズメント、販売:レジャック)、新日本企画(後のSNK)、IPM(後のアイレム→アピエス)、豊栄産業(後のバンプレスト)、シグマ(後のKeyHolder)、サン電子、日本物産、データイースト等そうそうたるメーカーが並ぶ。任天堂(レジャーシステム)のアーケードデビュー作は『コンピューターオセロ』だが、2作目はやはり『ブロックフィーバー』でこれらのゲームのコンシューマー版も出している。最初からテーブル筐体やCPUを採用したメーカーもあった。 ナムコ(後のバンダイナムコエンターテインメント)はアタリとの距離が近かった時代であり、他社のブロックくずしがコピーゲームであるとしてアタリに何度も訴えた。しかし同社はAtari 2600の販売開始に必要な資金繰りに追われ、日本まで監視の手がまわらず、アメリカではコピーが流通しなかったことから、特別な対策をしなかった。のちにナムコもブロックくずしを発売したが、その頃には先発亜流メーカーにすっかり遅れをとっていた。 こうしたメーカーの激しい競合で、ブロックくずしの販売市場は飽和状態となり、各メーカーは障害物が登場する続編または追加基板キットを発売し、客離れを防ごうとした。だがそれは単純にゲームが難しくなっただけであり、改造基板も壊れ易くなり、ブロックくずしのブーム終焉を加速させてしまった。まだこうした新規メーカーにはオリジナルのゲームを作る力はなく、後述する『サーカス』のコピーゲームを作るのが関の山だった。しかしタイトーがブロックくずしを下敷きに、日本で一大ブームとなった『スペースインベーダー』を発売、各メーカーは『スペースインベーダー』のライセンスやコピーゲームを出すことで、より会社を大きくしていった。
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