文書事件とボストン茶会事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:29 UTC 版)
「トマス・ハッチンソン」の記事における「文書事件とボストン茶会事件」の解説
詳細は「ボストン茶会事件」を参照 1772年、ハッチンソンの議会に対する演説で、植民地がイギリス議会に対して全的に従属するか、実質的に独立するか、と論じたときに、マサチューセッツの議論は最高潮に達した。議会の反応として、ジョン・アダムズ、サミュエル・アダムズ、ジョセフ・ハウリーが書いた自治を認める植民地憲章が出てきた。イングランドでは植民地担当大臣ダートマス卿が、植民地代理人のベンジャミン・フランクリンに、マサチューセッツ議会はその反応を取り消すよう指示していた。フランクリンは1760年代後半にハッチンソンなど植民地の役人達が書いた一束の手紙を入手し、それらから、ハッチンソンとオリバーは植民地の状態を誤って理解しており、イギリス議会を誤解させていたと結論付けた。これら文書を広く知ることが植民地の怒りをイギリス議会から遠ざけ、またこれらの過てる文書を書いた人々からも遠ざけると考えたフランクリンは、1772年12月にマサチューセッツ植民地議会議長のトマス・クッシングにそれらの文書を送った。フランクリンは「それら文書を公刊する自由を」与えられていなかったので、出版されたり回覧されたりしないようクッシングに伝えた。これら文書は当時議会の書記官を務めていたサミュエル・アダムズの手に入り、アダムズは1773年6月にそれらの出版を画策した。フランクリンはの考えはその一部が正当化されるということであり、文書の出版はハッチンソンに対する批判の奔流を解放することとなったが、イギリス議会の製作に対する反対を和らげることにはならなかった。その代わりに反対派はその文書を自分たちの権利に対する陰謀を確認できるものだと見なした。これら文書はアメリカ植民地全体で再版され、遥か離れたフィラデルフィアで起きた暴動のときには、ハッチンソンの人形が燃やされることもあった。 ハッチンソンの文書は1767年方1769年に、イギリス政府から引退していたトマス・ホエートリーに宛てて書かれたものであり、植民地人が本国でならば持てる権利を全てもつことは不可能であり、基本的に「イギリス人の自由と呼ぶものの剥奪」を求めている内容だった。植民地政府を「どのように」改革すべきかという具体的提案はなく、出版されなかった手紙では、「それが除去するか大変不確かなものとなるような大きな悪を生む以外、何物でもないと考えられる」と記していた。対照的にアンドリュー・オリバーが書いた手紙は、総督評議会の評議員が議会によって選ばれ、総督の同意を得ていたものを、王室によって指名されるものに変更することを具体的に提案していた。 ハッチンソンが手紙で書いていたことの多くは特に新しいことではなかったが、サミュエル・アダムズはハッチンソンやオリバーが書いた内容やその暗示するものを、植民地人の権利を奪うためにロンドンの役人と陰謀を図っていると印象付けるようにうまく操作した。ハッチンソンは植民地検事総長ジョナサン・シューワルが出版したもので弁護された。シューワルは、ハッチンソンが事態の変更を実際に表明しているのではなく、現在の状態の今後の可能性を考察しているだけだと述べていた。 マサチューセッツ植民地議会は貿易委員会に宛てて、ハッチンソンの解任を要求する請願書を起草した。ハッチンソンは、出版された文書の影響と、議会の請願書がロンドンで起こす影響を心配し、自分を弁護するためにロンドンに行く許可を求めた。ハッチンソンがロンドンに戻ることを許可した手紙がボストンに届いたのは1773年11月になってからであり、その年に出発するには遅すぎた。ハッチンソンの要請と議会の請願書がイギリスに届いたのは1774年初期に入ってからだった。 一方、イギリス議会はタウンゼンド諸法の多くを撤回し(茶に関するものを残した)、さらに茶法を成立させ、イギリス東インド会社が直接茶を植民地に運び、その商流から植民地の商人を排除し、密貿易を行うオランダの茶の価格を下落させることを図るものだった。このことで、北アメリカにある植民地全ての商人が、東インド会社の茶の物流に対する反対運動を組織化することになった。マサチューセッツでは、1773年11月に茶を積んだ船が到着したことで危機状態になった。その船の到着後20日以内に課税積荷にたいする関税を払う必要があったからだった。ハッチンソンとその息子達は東インド会社が茶を配達した実業家の中に入っていたが、ハッチンソンは荷受人を選ぶ時に公式の役割を果たすことを拒否した。他の荷物は船から卸されたが、茶を卸さないよう武装した抗議者が桟橋をパトロールしていた。ハッチンソンは強硬路線を選び、市全体の抗議者が茶をイングランドに送り返すよう求めていたにも拘わらず、船が港を出て行くことを拒否し、関税を払い、茶を陸揚げすることを求めた。12月16日に20日間の期限が切れ、その夜に抗議者(インディアンに紛争した者もいた)が船に乗り移り、茶を海に投げ捨てた。 ハッチンソンは歳入法を維持するのが総督の任務であると主張することで、この危機を生んだ強硬路線を正当化したが、ジェイムズ・ボーディンのようなアメリカの反対者は、住民感情故に茶の陸揚げが不可能ということが明らかになったときに、茶の受け入れを容易に拒否できたはずだと主張していた。イギリスの批評家はボストンのイギリス軍に仲裁を求めるべきだったと言っていた。北アメリカに向かっていた他の茶運搬船が引き返したことが明らかになると、ハッチンソンはイングランドに送る手紙で自分の行動の正当化を続け、それが届けば事態に関する聴聞があることを期待していた。 植民地議会のハッチンソンのリコール請願を検討するために貿易委員会が招集されると、茶会事件のことも検討した。植民地代理人としてのフランクリンは批判の集中砲火を聞かされることになり、植民地の郵政長官の職を解任された。議会の請願書は「根拠なし」と「濫訴」と判断されて否決されたが、ハッチンソンの辞任要請は認められた。1774年5月、トマス・ゲイジ将軍がボストンに到着して総督を引き継ぎ、茶会事件に対する懲罰としてイギリス議会が成立させた「強圧的諸法」を執行した。ハッチンソンはマサチューセッツを一時的に離れるものと信じ込んだまま、1774年6月1日にイングランドに向けて旅立った。
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