弥生時代以降、日本料理へと
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 22:18 UTC 版)
「日本列島の狩猟採集時代の食事」の記事における「弥生時代以降、日本料理へと」の解説
詳細は「日本料理」を参照 縄文時代の食文化は、日本列島に渡来する食文化と融合して、日本独自の食文化「和食」が形作られていくことになる。遺跡発掘や、古い文書『日本書紀』や『延喜式』により日本型の食生活の原型は弥生時代にはみられる。約2500年前の弥生時代に、稲作が伝来し、米を備蓄するための高床倉庫が造られるようになる。稲作の儀礼を司る指導者が現れ、集落は同士で争い大きな国となっていったが、中国の歴史書は日本列島の人々を倭人(わじん)と呼び、100余りの国があった。3世紀はじめまでには、卑弥呼(ひみこ)による邪馬台国(やまたいこく)という大きな国ができていた。 弥生時代の遺跡に最も多いのはドングリであり、次いで稲、桃、豆、ヒョウタン、クルミ、栗、麦であり、まだ縄文時代からの食が変化する過渡期にある。古代食の研究家の廣野卓は、遺跡の出土物から卑弥呼の食事を考えており、縄文時代にはその時食べられる食物の雑食であったが、農耕が普及し米や粟(あわ)を主食にし、鶏獣肉、魚、海藻、野菜、山菜、を副食にするという日本食の基本ができあがってきた。主食は米栗の強飯(こわいい)、鶏肉や魚を混ぜた汁粥、魚介のなますや塩焼き、干物、ワカメ、アラメなど海藻の熱汁、大根、カブラ、フキ、ノビルの塩漬けや塩茹で、茹でた里芋、桃、柿、梅、スモモ、栗とちなど木の実である。卑弥呼の料理を食文化史研究家の永山久夫が紹介しているが、玄米を蒸した玄米強飯、焼きだこ、茹でワカメ、煮豆、アワビ、茹でたサトイモなど日本の和食に欠かせない食材が並んでいる。弥生時代中期以降に中国の食文化を取り入れ、後に日本人の好みに消化していく。 3世紀以降、ヤマト王権が様々な国を支配していき、次第に日本を名乗るようになる。 713年『続日本紀』では大和国(おおやまと)と記されるが、720年の『日本書紀』には日本と記される。米を主食とし、魚や野菜といった副菜を組み合わせる日本食の基本形式は奈良・平安時代に始まるが、日本独自の日本料理、和風料理と呼ぶにふさわしい料理文化が登場するのはもう少し先である。仏教が伝来し、聖徳太子は十七条憲法(ユリウス暦604年)にて「和を持って尊しとなす」と制定し和という考えが日本に影響するようになった。『日本書紀』によれば、675年4月17日、天武天皇が殺生禁止令と呼ばれる詔を発し、明確に「牛馬犬猿鳥の肉を食べてはならぬ」と記されている。奈良時代の762年の正倉院文書や『延喜式』を元に復元した食事は、蒸した米、汁物には海藻が使われ、大豆、小豆、胡麻油、漬菜に塩、醤(ひしお)、酢といった調味料が使われている。
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