岸本館長下における近代化の取り組み
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「東京大学総合図書館」の記事における「岸本館長下における近代化の取り組み」の解説
建設当時は最新鋭の設備を取り入れて造られた図書館であったが、開館から30年近く経った昭和30年代には(学内の各部局図書館なども含めて)あらゆる問題が顕在化していた。この頃第17代茅誠司総長の依頼を受けて、1960年(昭和35年)4月に図書館長に就任したのが、当時文学部の教授を務めていた岸本英夫である。岸本は館長就任にあたって、親交のあったチャールズ・B・ファーズ(当時のロックフェラー財団の極東関係人文・社会科学系緊急援助担当官、戦前には東京帝国大学への留学経験もあった)に相談して図書館の徹底的な改革を決意し、茅総長に対して図書館改革へのバックアップを求めた。 就任後、6月にはロックフェラー財団において図書館改善のための調査費等約1,000万円の寄附が決定され、岸本館長は7月から9月まで、また幹部職員3人が11月から12月にかけて渡米し、アメリカの先進的な大学図書館を視察した。9月28日は臨時調査室が設置されて、同年中は中央図書館のみならず各部局図書館も含めて、東大図書館の全体に関する調査が進められた。翌1961年(昭和46年)2月と3月には、アメリカからキーズ・D・メトカフ(英語版)(ハーバード大学図書館(英語版)で18年間館長を務め、在任中に同大学の全学的図書館機構の再建に成功していた)を招聘して、助言を得た。5月までに改善計画案が完成し、6月に評議会で承認された。 図書館の改革は、「もはや、図書をしまっておく場所ではない、図書をひろく、効果的に、読ませる、利用させるような働きをする」近代的大学図書館を実現し、「全学の教授、学生、研究者のすべてが、全学のすべての図書を、たやすく利用できるように」するといった目的意識に基づいていて、計画の焦点として岸本は「全学総合図書目録130万枚(ユニオンカタログ)の作成」「東大の機構としての附属図書館体制の確立、および部局図書館の連絡調整」「指定書制度の強化」「総合図書館(中央図書館の新名称)の近代的改装」の4項目を挙げている。ここではその内、中央図書館(総合図書館)に関連する事項を取り上げる。 ユニオンカタログについて、当時の東京大学は、10学部・14附置研究所に250万冊の蔵書を有していたが、これら全てを対象とした目録は存在しなかった。中央図書館には自館および8学部(教養学部・農学部以外)の蔵書をカバーするカード目録が存在していたが、全学に所蔵される図書に対してのカバー率は半分程度であった。全学で所蔵されている図書の総合的な利用をはかるために、全学総合目録の作成は必須であった。この作業は各図書室のカード目録の状態調査から始まり、次いで教養学部、農学部および各附置研究所の目録カード70万枚の撮影が行われ、撮影されたフィルムはボストンのゼロックス社に送られてカードが複製された。このカードに加筆修正を行った上で、全学総合目録として整備され、総合図書館に設置された。カード目録の機能がOPACに移動した現在、更新は行われていないものの、全学総合目録は引き続き大階段下に設置されている。 総合図書館建物の改装は、「モニュメントとしての性格を強く表現している」図書館を、「利用者本位の機能的な、近代的な図書館につくりかえる」ことに主眼をおいて取り組まれた。大きな動きとして、利用者一般に対する施設を1階に下ろしたことが挙げられる。図書館は3階を主階として造られていて、閲覧室や出納台など、利用者に対する施設は専ら3階に集約されていたため、利用者は入館するとまず大階段を3階まで上がらなければならなかった。1階入口の両脇には記念室と新聞雑誌閲覧室が設けられていたが、前者は賓客を迎える一室として用いられていて、利用者には開放されていなかった。そのため1階で利用者が利用できる空間は、ほぼ新聞雑誌室のみであった。この状況を改善するため、まず書庫に通ずる出納台を1階大階段裏に移し、天井の高い新聞雑誌閲覧室には中2階を設けて学生閲覧室とし、1階は参考室に充て、従来開放されていなかった記念室は自由閲覧室として利用者に開放されることとなった。当初予定では記念室にも中2階を設ける予定があったが、これは実現しなかった。ほか、3階北側の一般閲覧室は一部に書架を設置し開架閲覧室とし、4階は下階からの吹き抜けを塞いで専門別閲覧室としてのアジアセンター、外国法資料センターや閲覧個室を設置、地階の改装を行って書庫の収容冊数増加を図るなど、館内全体にわたって根本的な改修が行われた。 岸本は館長就任以前から癌との闘病を行っていたが、11月15日の外国法文献センター開設式出席後は自宅療養となり、12月8日に東大病院に入院した後、翌1964年(昭和39年)1月25日に黒色腫のため死去した。2月6日には総合図書館で超宗教による附属図書館葬が営まれ、正面大階段を上った先の3階ホールに祭壇が設置された。図書館界や大学、文部省の関係者のほか、岸本が専門としていた宗教学界関係者、さらに学生など1,500人が参列した。
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