対潜掃討群とCVH (2次防以前)
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「海上自衛隊の航空母艦建造構想」の記事における「対潜掃討群とCVH (2次防以前)」の解説
その後、対潜哨戒ヘリコプター(HS)という新技術の発達とともに、ヘリ空母として独自の運用思想が構築されることとなった。この当時、原子力潜水艦の登場に伴って、敵潜の避退時速力の高速化が予想されたことから、水上艦艇による掃討列の前・側方にヘリコプターを配することで捕捉率を向上させることが構想されており、世界的にもまだあまり例のない運用思想であった。 この運用思想のもと、基準排水量23,000トンのCVH-a(対潜ヘリコプター18機及びS2F対潜哨戒機を6機搭載)と、基準排水量11,000トンのCVH-b(対潜ヘリコプター18機搭載)の2案が構想されたが、検討の結果、総合的にCVH-b案が優れると判断された。 1959年(昭和34年)には海幕内で「ヘリ空母CVH」として計画が具体化され、同年8月には技術研究本部において検討資料として、右記のような諸元を備えた配置図草案が作成された。主機関は「あまつかぜ」(35DDG)に準じたものとされた。飛行甲板は全長155m×最大有効幅26.5mで、中部から後部にかけて3ヶ所のヘリコプター発着スポットが設定されていた。エレベータは17m×8m大のものが2基、前部エレベータは甲板内式、後部エレベータは舷側式に設置される。ハンガーは長さ112.5m×最大幅22mで、HSS-2ヘリコプター18機を格納できるものとされた。ダメージコントロールのため、船体中心より後方4mの位置でスライディング・ドアが設置されており、非常時にはこれを封鎖してハンガーを前後に分割することができるものとされた。建造費は100億円と見積もられ、日本側負担が80.5%、アメリカ側が19.5%、またHSS-2ヘリコプター27機の予算は日本側負担が47.8%、アメリカ側負担が52.2%、経費全体では日本側負担が62.8%、アメリカ側負担が37.2%だということまで話が決まっていた。また対潜掃討群の編成としては、CVH×1隻、DDG×1隻、DDA×2隻、DDK×3隻と計画されていた。これらの構想に関して、1960年9月に海上幕僚監部から派米されたASW調査団は、アメリカ海軍から全面的な賛同を受けた。 1960年(昭和35年)9月8日に日本の外務省で開催された第1回日米安全保障協議委員会(SCC)において、アメリカ太平洋軍のフェルト司令官は池田勇人首相と会談した際に、ソビエト海軍の潜水艦の脅威に対抗するためには対潜水艦作戦が重要であることを指摘し、日本にヘリコプター空母の保有を勧めていた。これに対して池田首相は「日本独自でやろうにもアメリカの援助がなければ(ヘリコプター空母は)出来ないのではないか」とした上で、「長期的にみれば日本として何とかやらなくてはならぬ」と答えている。 赤城宗徳防衛庁長官が積極的に推進していたこともあって、CVHに関してはこのように具体的な検討がなされ、1960年(昭和35年)7月の防衛庁(当時)庁議において建造が決定された。しかし同年は、いわゆる60年安保の年で政局が混乱していたことから、2次防の国防会議への上程そのものが見送られることとなった。また外洋に出ていきたい海上自衛隊と専守防衛にこだわる防衛庁(当時)内局とのせめぎ合いが起こったこともあり、昭和36年度予算および2次防へのCVH計上は行なわれず、以後、CVH計画が正式に取り上げられることはなかった。 防衛庁防衛局長や官房長を務め、自身の持論に基づき2次防CVHなどの計画に強硬に反対した海原治は、2次防CVHに関して「(海上自衛隊は)日本の四つの島が生きてくために何が出来るか、何をするかということじゃないんですよ。やはり軍艦マーチに乗って太平洋に出ていく、これが夢なんですね。それは(旧海軍から)今でも生きているんです」「私がヘリ空母を沈めたことはアメリカの方にとっても衝撃だったんですね。(中略)海上自衛隊とアメリカ海軍との間で決まっているものを私がご破算にしちゃったわけです。だから、これは大変な問題になるわけです、彼らにとっては」と述べている。また、後に自衛艦隊司令官となった香田洋二海将は、海原防衛局長の防衛論の限界を指摘する一方、CVH計画についても下記のような問題点を指摘している。 予算面の問題 - 100億円という高コストゆえに、他の艦隊整備(ミサイル護衛艦(DDG)の増勢など)を圧迫した恐れが大きい。なお、海自初のミサイル護衛艦であった「あまつかぜ」(35DDG)の建造費は98億円であり、海自はその性能に大きな感銘を受けつつも、その余りの高コストから同型艦の建造には踏み切れなかった。結局「あまつかぜ」以降、海自はたちかぜ型(46/48/53DDG)の建造まで約10年間、ミサイル護衛艦の建造は行わなかった。 性能面の問題 - 1960年当時、まだシーキング・シリーズの最初期モデルであるHSS-2(SH-3A相当)ですら実用化されておらず、ソノブイによる対潜戦のノウハウも蓄積されていないなど、艦載哨戒ヘリコプター・システムの完成度自体が低く、所期の機能を保持できたか疑問である。なお、後にDDHによる8艦8機体制が策定された際に艦載機とされたのは、シーキング・シリーズの後期型であるHSS-2B(SH-3H相当)であった。
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