寺田財閥の発展
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1892年(明治25年)11月1日、第五十一国立銀行(のちの五十一銀行、合併されて住友銀行、現在の三井住友銀行)を設立し、1881年(明治14年)に二代目頭取となった寺田甚与茂(1853年 - 1931年)ほか24名が連名で大阪府知事に対し設立申請を行い、同月25日に許可が下り、翌12月10日に本社および工場を起工、1894年(明治27年)1月20日に岸和田紡績株式会社として開業した。設立当初の資本金は250万円、本社は大阪府南郡岸和田町大字岸和田北935番地(現在の同府岸和田市北町18番、コープ岸和田)に定めた。甚与茂らは、1897年(明治30年)9月には、和泉貯金銀行(のちの和泉銀行、合併されて住友銀行、現在の三井住友銀行)を設立している。 1903年(明治36年)2月7日には、かつて同社発足準備段階で男女工員を研修に出した先である泉州紡績(1889年設立)を合併し、それとともにもともと官製工場であり、当時は泉州紡績が稼働していた戎島紡績所(堺紡績所)を入手、これを同社の堺工場とする。同工場の稼働により、同社の生産力は4倍に増強された。1912年(明治45年)4月23日に大阪府泉南郡麻生郷村大字津田(現在の同府貝塚市津田南町28番)で寺田甚与茂の異父弟であり、同社の取締役を務めていた寺田利吉(1857年 - 1918年)が開業した寺田紡績工廠(現在のテラボウ)は、同社とは資本関係なく、寺田利吉の独立した事業である。 1912年(大正元年)10月7日、大阪府泉南郡北掃守村大字春木(現在の岸和田市松風町10番地65号、岸和田市立春木中学校)に春木分工場を設立、社長自ら陣頭指揮を執り稼働させたが、1914年(大正3年)7月31日、火災で全焼している。しかし、即座に復興にとりかかり、同年12月1日には再稼働を実現している。1918年(大正7年)には、同社は朝鮮(現在の大韓民国)に人材を求め、朝鮮人女性を多く雇用して工場労働者とした。1922年(大正11年)7月には、春木分工場の朝鮮人女性労働者による待遇改善を求める争議行為が起こり、翌8月には本社工場に勤務する日本人労働者による争議が発生している。翌1923年(大正12年)7月23日には、和泉紡績を合併、この工場を同社の津工場としたが、同年11月には、同社のみならず寺田紡績工廠、和泉紡績を含めた大規模な争議が起きている。昭和に入ってからも、1930年(昭和5年)5月3日、堺工場で、在日朝鮮人労働者と日本人労働者の共同闘争による大規模な争議が行われたが、1か月半後の6月13日には解決した。この詳細は後述する。 1931年(昭和6年)11月23日、寺田財閥を創設した同社の初代社長・寺田甚与茂が死去、同年12月には甚与茂の長男・寺田甚吉(1897年 - 1976年)が二代目社長に就任した。甚吉は、各工場の機械設備刷新を行い、老朽化した堺工場(1870年開業)の整理を断行、1933年(昭和8年)10月5日には休止、翌年3月31日には廃止、1939年(昭和14年)10月10日には他社に売却している。1934年(昭和9年)には、大阪市東区瓦町2丁目55番地(現在の同市中央区瓦町2丁目1番1号)の三和ビルヂング内に営業所を開設、これに本店幹部を結集し、事業の効率化を図った。同営業所は、1936年(昭和11年)4月に新築した同区北久太郎町3丁目38番地(現在の中央区久太郎町2丁目5番31号)の寺田ビルヂング内に移転している。また、1932年(昭和7年)10月には、同社の倶楽部として自泉会館(現在の岸和田市立自泉会館)を建設・開館した。1938年(昭和13年)3月には、専務取締役山田宗三が三代目社長に就任している。 1940年(昭和15年)6月1日には、中華民国天津市(現在の中華人民共和国天津市)に天津工場を建設、操業開始した。同工場の視察から交渉・建設を手がけた取締役の寺田栄吉(1902年 - 1993年)が、同年12月に四代目社長に就任した。その後、創立以来の黒字経営・高配当のまま、1941年(昭和16年)7月26日、大日本紡績と正式合併、解散した。
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