失望・苦難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 21:16 UTC 版)
小説『写真花嫁』、映画『ピクチャーブライド』の場合と同様に、多くの写真花嫁は初めて会った夫に失望した。通常、男性は女性より10~15歳もしくはそれ以上年上であり、見合い写真と似ても似つかない場合も少なくなかった。16歳のカヨの夫マツジは43歳であった。写真はたいてい若い頃のものや友人の写真、修整された写真であった。一張羅を着て、友人が雑役夫として働いていた白人の瀟洒な邸宅の前で撮った写真などもあった。男性からは写真を送らない場合すらあり、花嫁は移民局で夫に見つけてもらうまで待つしかなかった。また、通常は、仲人(ハワイでは「シンパイ(心配)」と呼ばれていた)から男性の家系、財産、教育、健康状態について知らされていたが、こうした情報も、その多くが偽りであった。農場主というのは嘘で小作農であったり、商人と言っても日系人相手の貧相な店であったり、履歴書にはエレベーター技師と書かれていても実はホテルのベルボーイであったり、運転手が歯医者と偽ったり、鉄道工夫が社長と偽ったりと、その多くが虚偽や誇張であった。しかも、花嫁は1か月の長旅の疲れを癒す間もなく、早速サトウキビ畑やパイナップル畑で農作業に取りかからなければならなかった。 写真花嫁に限らず、移民が新しい環境に適応するためには、習慣の違い、言語障壁など克服しなければならない困難がたくさんあったが、写真花嫁の場合は、このような仲人・身内の言葉、履歴書そして期待と現実との乖離に驚き、ショックを受け、夫と対面するなり泣き出す女性もあり、多くの花嫁が日本に帰りたいと思い、実際に帰ってしまった女性もいる。こうした女性に対して、移民局の職員は、「せっかくハワイに来たのだからしばらく滞在してみて、どうしても嫌だったら帰ればいい。独身男性はたくさんいるのだから、別の男性に出会う機会があるかもしれない」と説得した。また米国のリトル・トーキョーでは、日系人指導者らがこうした女性のための相談・紹介サービスを提供する協会を設立した。 だが、日本に帰りたくても渡航費がなく、しばらく夫と暮らした後に家出する女性、駆け落ちする女性もあった。夫は妻を連れ戻すために、情報提供者に謝礼をするという広告や駆け落ちの顛末を語る記事を邦字新聞に掲載したが、これはむしろ社会的制裁であった。強い絆で結ばれた日系社会でこのような情報が流布されると、もはや日系社会に住むことができなくなるからである。このことをよくわかっている女性たちは、深い失望や貧困、重労働にもかかわらず、現地に留まるしかなかった。彼女たちはみな、日本人のメンタリティ(精神性)である「我慢(忍耐)」、「仕方がない」という言葉を口にした。親に対する忠誠、義理、恥、恩といった封建的な価値観を持っている女性も多かった。ロサンゼルスの「ケイロウ (敬老)」介護施設に暮らすヒサノ・アカギは、「日本に戻りたかったが、見合い結婚は取り消すことができない」、「家族に(彼女を)写真花嫁として嫁がせた理由を尋ねたことはないが、日本に帰りたくても親に歯向かうことなど考えられなかった」と言う。「アメリカで裕福な生活ができると思ったが、相手は11歳年上で、写真と違う顔だった」と言うセツ・クスモトは、米国は豊かな国だと聞かされて写真花嫁になる道を選んだが、失望したときにも「(渡米など考えた)自分が悪かったのだ」と考え、農作業や家事労働に雇われて苦しい生活を強いられても「仕方がない」と考えた。また、「好きも嫌いもなく、親が決めたことだから」と言う女性もいれば、「いつも、子供が一人前になるまでは、という思いで生きてきた」と言う女性もいる。女性にとって最も重要なのは「結婚して子供を育てること」と教えられて育った女性たちは「子供のために」、「家族のために」という責任感で夫との関係を維持していた。一世の女性タカエ・ワシズは、「当時は夫を捨てる妻がたくさんいて、新聞に妻を探すための広告がたくさん掲載された。私も、夫が年を取りすぎているし、料簡が狭すぎるので話が合わなくて逃げ出したかったけれど、子供を捨てるわけにはいかなかった。夫に子育てを任せることはできなかったし、それに、私には行く場所がなかった。ひたすら我慢して、子供たちの明るい将来を夢見ていた」と述懐している。 1921年に熊本県で生まれ、オアフ島(ハワイ)のサトウキビ農園で育ったバーバラ・カワカミは、仕立屋・家政婦として働いた後、50歳を過ぎて高校進学を決意し、さらに理学士号とアジア学の文学修士号を取得。父親は母親より24歳年上で、彼女が6歳で、母が9人目の子を妊娠しているときに63歳で死去した。女手一つで9人の子を育てたカワカミの母親の仕事は、フィリピン人鉄道工夫の作業服を洗濯することであった。幼い頃、丸一日かけて洗った作業服にアイロンをかけながら、静かに泣いている母を見た。彼女は1979年から30年間にわたって日系一世250人のインタビューを行い、映画『ピクチャーブライド』で衣装など時代背景に関する情報を提供し、2016年には『写真花嫁の物語』を発表した。本書は、写真花嫁たちがいかに日系社会の存続と発展に貢献したかを示すオーラル・ヒストリーである。
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