大阪馬車鉄道から浪速電車軌道へ
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「阪堺電気軌道」の記事における「大阪馬車鉄道から浪速電車軌道へ」の解説
1895年(明治28年)10月5日 荻田利兵衛ほか26名が発起人となり、初代・大阪鉄道天王寺停車場(現在のJR西日本天王寺駅)から住吉大社や天下茶屋遊園(現在の大阪市阿倍野区橋本町付近にかつて存在した遊園地)への旅客誘引を主たる目的に、大阪府東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎(現在の大阪市阿倍野区松崎町一丁目付近) - 大阪府東成郡天王寺村大字阿部野字南阪田(現在の大阪市阿倍野区晴明通付近) - 大阪府西成郡勝間村(現在の大阪市西成区玉出東一丁目付近)間に馬車鉄道敷設を出願。 1896年(明治29年)8月16日 荻田利兵衛ほか26名が発起人となり、大阪府東成郡天王寺村大字阿部野字南阪田 - 大阪府東成郡住吉村(現在の大阪市住吉区住吉2丁目付近)間および大阪府東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎 - 大阪府東成郡天王寺村字六万体(現在の大阪市天王寺区四天王寺一丁目付近)間の馬車鉄道延長敷設出願。 9月15日 荻田利兵衛らに大阪府東成郡天王寺村大字天王寺字長者ヶ崎 - 大阪府西成郡勝間村間の敷設特許状が下付される。 1897年(明治30年)5月26日 大阪馬車鉄道株式会社が設立され、初代取締役社長に土居通夫が、役員に出水弥太郎をはじめとする大阪、河内の有力者や大地主らが就任。資本金5万円。現在の阪堺電気軌道上町線および後の大阪市電天王寺阿倍野線(1968年12月18日廃止)の起源。 10月26日 臨時株主総会において、動力を馬力から電気に変更することが決議される。 (この間)政府に電気鉄道変更願を出願。 政府からの「工事着手延長出願ノ件詮議及ビ難シ」の指令を受け、やむなく電化変更願を取り下げる。 1898年(明治31年)3月20日 馬車鉄道の起工式を行う。 (この間) 路線の電化から路線の拡充に方針を転換し、以下の3線の敷設を出願。*1第一東西線 大阪市東区平野町(現在の大阪市中央区平野町) - 大阪市南区難波(現在の大阪市中央区難波) - 大阪市西区八幡屋新田(現在の大阪市港区八幡屋付近)間3.6マイル(5.79 km) 第一東西線 大阪市東区上本町二丁目(現在の大阪市中央区上本町二丁目) - 大阪市西区松島花園町(現在の大阪市西区 九条新道交差点付近)間2.5マイル(4.02 km) 南北線 大阪市南区難波 - 大阪市南区湊町(現在の大阪市浪速区湊町一丁目) - 北区梅田停車場(現在の大阪駅)間3マイル(4.83 km) 1900年(明治33年)9月20日 大阪馬車鉄道が天王寺南詰(現在の天王寺駅前交差点付近) - 八弘社*2(現在の阿倍野) - 阿倍野(現在の東天下茶屋)間1.05マイル(1.7 km)を開業。旅客運賃を天王寺南詰 - 八弘社間および八弘社 - 阿倍野間をそれぞれ1区間とし、1区2銭、2区3銭(開業後しばらくは半額)とする。旅客営業時間を午前6時から午後8時までとする。 11月29日 天下茶屋 - 上住吉(現在の神ノ木)間延伸開業。 (この間)天王寺南詰 - 天王寺*3(現在の大阪市天王寺区四天王寺前交差点にあった駅)間延伸開業。 1902年(明治35年)12月27日 上住吉 - 下住吉(現在の住吉)間延伸開業。 1903年(明治36年) 天王寺南詰 - 阿倍野間の開業からわずか1か月後の1900年10月26日に開業した南海鉄道天王寺支線天王寺 - 天下茶屋間2.4 km(1993年4月1日全線廃止)による影響の拡大から明治36年度上半期決算で初めて赤字に転落。以降、明治39年度下半期決算まで8期連続赤字となる。 (この間) 阿倍野 - 勝間村(天下茶屋)間の支線敷設の出願を取り下げる。 1906年(明治39年)11月1日 天王寺南詰 - 下住吉間の電化を内務大臣に申請。 1907年(明治40年)2月 天王寺 - 下住吉間の電化が内務大臣から認可される。 3月29日 社名を大阪電車鉄道株式会社に変更し、資本金を50万円に増額。浅野総一郎や前島密が株主となり、浅野総一郎がその筆頭株主となる。 10月29日 社名を浪速電車軌道株式会社に変更。 11月 大阪市と軌道および車両の共用契約を締結。 1908年(明治41年)1月31日 天王寺 - 下住吉間の馬車鉄道による旅客営業を廃止し、路線の1067mmから1435mmへの改軌および電化・複線化工事に着手。 1909年(明治42年)3月 電動客車20両を新造。 (この間)下住吉から大阪府堺市方面への路線の延伸を出願し、南海鉄道を慌てさせる。*4 南海鉄道との合併交渉を開始。 阪堺鉄道(南海鉄道の前身)の創業者、藤田伝三郎の仲介で南海鉄道との合併交渉が成立。 3線とも幻に終わった未成線。 当時、大阪一と云われた民営の火葬施設(後の大阪市営南斎場。1952年4月に名称を大阪市営瓜破斎場に変更し、大阪市東住吉区瓜破東〈現在の大阪市平野区瓜破東〉に移転)、および民営の霊園施設(現在の大阪市営南霊園)を運営していた企業名でもある。 数多くの文献等には、「天王寺西門前」と記されているが、当時の地形図には「てんのうじ」と記されている。 それまで非電化であった南海鉄道の路線が電化されるに至った原因。
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