地区検事、外交官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/11/17 10:00 UTC 版)
「クリストファー・ゴア」の記事における「地区検事、外交官」の解説
1789年、ジョージ・ワシントン大統領がゴアを、その支持への報償として、初代のアメリカ合衆国マサチューセッツ地区検事に指名した。ゴアは州憲法で役職を複数保持することを禁じているのは、連邦政府の役職には適用されないと主張し、州議会下院議員の辞職を拒否し、論議を呼ぶことになった。しかし同僚議員からの圧力があったので、抗議に合わせて下院議員を辞職することになった。 ゴアは地区検事を1796年まで務めた。その主要な関心事はフランス革命についてアメリカ合衆国の中立を強制することだった。ボストンのフランス領事アントワヌ・デュプレーンが、ボストン港の私掠船を武装させ、出撃させていると言って、何度か告発を試みたが、フランスに同調的な地元陪審員に妨害された。デュプレーンは最終的にゴアが提出した証拠に基づき、ジョージ・ワシントン大統領からの命令で、国外追放となった。 ゴアはマサチューセッツ州の新聞に政治的な記事を載せて、反フランスの世論を喚起もした。「マンリウス」という筆名で、連邦党の政策に反対しフランス寄りの立場を支持するために結成された「民主協会」を非難した。ワシントン大統領には、イングランドに誰かを派遣して交渉に当たらせることを提案した。1794年にジョン・ジェイがロンドンに行き、ジェイ条約の交渉を行った。ゴアはその条約の批准を声高に支持した。ゴアはフランスの政策に敵対的だったが、個々のフランス人には友好的だった。後のフランスの政治家タレイランがアメリカを訪問したときは、彼を歓迎した。 1796年、ワシントン大統領がゴアを、ジェイ条約の下で海事権を扱うアメリカ合衆国を代表するコミッショナーに指名した。その結果同年、ゴアはイングランドに移動し、人気のあるハイド・パーク地域に住居を構えた。その任務は、イギリスがアメリカの船や船荷を押収することから生まれる苦情を仲裁し、進行しているフランス革命戦争でアメリカの中立を守らないことに関してイギリスの苦情を処理することだった。3人のアメリカ人(ゴアとウィリアム・ピンクニー、ジョン・トランブル)と2人のイギリス人(ジョン・ニコル、ニコラス・アストリー)で委員会が作られた。意見が一致しなかった場合に決着票を投じる「公平な考え方」をする人物として、トランブルが他の4人から選ばれた。同年、ゴアはアメリカ芸術科学アカデミーの会員にも選出された。 ゴアはイギリス関係者からうまく受け入れられたが、仕事はゴアが「手続きの退屈さ」と呼んだように大変なものであり、1798年には転任を要請することも考えた。1800年、アメリカ合衆国に対するフランス革命戦争に関わる未解決の要求を解決するために、条約によって設立された新たな委員会がまだ開かれていなかったので、イギリスは他の問題の解決手段が進行するまで手続きを停止させた。ゴアはこの休止を利用して短期間アメリカに戻り、ウォルサムの領地の状態を評価した。そこの家屋は1799年の火事でほとんど破壊されていた。ロンドンに戻った後、委員会の仕事は止まったままだったので、ゴアと妻のレベッカはヨーロッパを旅行した。オランダ、ベルギー、スイスを訪れ、パリでは6か月を過ごした。この旅行の間、また後にはイングランドやスコットランドで田舎の荘園にある建築物に関するメモを取り、ウォルサムの敷地に建てる新しい家屋の計画を作り始めた。 委員会は1802年初期に作業を再開し、1803年8月までに懸案事項を全て解決した。イギリスの権利請求者には11万ドルを、アメリカの主張者には600万ドル以上を渡すことになった。この一方的な結果は、アメリカ側の要求数がかなり多かったことによっていたが、要求を処理する過程で初期の重要な決定がアメリカ側に有利なものになったことと、イギリス当局がアメリカ側の機嫌を損ねないように計らったことにもよっていた。 イングランドにおけるゴアの社交サークルは、1796年に特命全権公使に指名された親友のルーファス・キングの周りに動いた。これにはもう一人マサチューセッツ州出身の在外居住者もいた。1803年5月にキングがその職から退任すると、ゴアを臨時代理大使としてロンドンの外交官の長に指名した。トーマス・ジェファーソン大統領は正規の指名を行わなかったが、イギリス政府はキングが帰国してから後任のジェームズ・モンローが着任するまでの2か月間、ゴアの役割を認めた。ゴア夫婦は1804年春にボストンに戻った。 レベッカ・ゴアはイギリスに滞在する間に、ヨーロッパの田舎で見た経験を活かし、ウォルサムの荘園のための新しい華麗な建物のデザインを作った。フランス人建築家ジョセフ=ジローム・ルグランの助けも得て、またイギリス人建築家ジョン・ソーンの作品の影響も受け、1804年にアメリカ側に戻った時に建てた家屋は、連邦様式の現存する例として最大級に華美なものとなっている。ゴア・プレースと呼ばれている。
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