地区検事および合衆国下院議員
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「ロバート・M・ラフォレット・シニア」の記事における「地区検事および合衆国下院議員」の解説
ラフォレットは法学の学位を得てから間もなく、デイン郡地区検事の一般選挙で共和党の指名を受け、1880年に当選することになった。この職を2期続けた後に、アメリカ合衆国下院議員に当選し、これを3期続けた。この期間には先住民族やアフリカ系アメリカ人の権利について擁護する立場で注目された。後援会方式に反対し、保護関税を支持したことで、ウィリアム・マッキンリーが主宰する下院歳入委員会への委員指名を受けることになり、そこでは1890年の関税法(マッキンリー関税)を起草することに貢献した。しかしこの法は大変不人気であり、1890年に民主党が大勝したときにラフォレットも議席を失った。 ラフォレットは4期目に落選した後で、マディソンに戻り法律実務を始めて、妻や4人の子供達との時間を多く過ごした。1890年代初期、共和党の大半は結党初期の反奴隷制という理想を棄て、企業の利益のための道具になってきたと考えるようになった。出身州であるウィスコンシン州では、産業や鉄道の利益が党に大きな影響を与えていると確信した。ラフォレットはこれに対応するために、有権者の支配を強調する党内独立組織を樹立し始めた。 1891年、ラフォレットは、ウィスコンシン州選出の合衆国上院議員の1人で強力な共和党指導者であるフィレタス・ソーヤーがある裁判を決着させるために賄賂を贈ろうとしていると非難した。この出来事はラフォレットの党を改革しようという提案を具体化した。ラフォレットに随いた党の造反分子は「インサージェンツ」(造反者、あるいは「進歩」派)と呼ばれ、党内でこれに反対する者達は「ストールワーツ」(熱烈支持者)と呼ばれた。インサージェンツはより直接的な有権者統制の必要性を強調し、消費者の権利を擁護した。インサージェンツの改革要求は、1893年の不況が経済、階級および大半のアメリカ人が抱いていた倫理仮説を揺り動かした後では多くの支持を得た。 1894年、インサージェンツは共和党の指導権を巡って公然とストールワーツに挑戦し始めた。インサージェンツのニルス・ホーゲンは1894年の知事選で党公認を求め、ラフォレットも1896年と1898年に続いた。大企業(特に鉄道会社)の支配を公然と非難する演説や、より直接的な民主主義の要求(党の予備選挙で候補者を直接選挙することを含む)はより大きな共感者を惹き付けることになった。 1900年、ラフォレットはストールワートが支配していた候補者指名方法を一時的に妨げる同盟を形成した。候補指名を得た後では、「61郡を動き回り、216回の演説を行い、20万人の人々に話し掛けた。」その選挙運動演説の多くは四輪荷馬車の上から(しばしば3時間以上も続いた)行われた。ラフォレットは10万票を得て1900年の知事選を勝ち取った。
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